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「究極、自分の主人は誰なのか」ということ

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★新年礼拝にあたり持ち出しました御言葉は、多くの知識人たちから批判を受ける次の言葉です。「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。主イェスがこのようにお語りになったからと言って、主イェスが「パン」の重要性を否定しておられるわけではありません。言葉を選ぶのは大変難しいことですが、敢て一言で言えば「究極、自分の主は誰なのか」ということです。★この視点を明確に伝えている主イェスの言葉がこれです。「だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。」同じ言葉を繰り返しますが、主イェスがこのようにお語りになったからと言って、主イェスが「富」の重要性を否定しておられるわけではありません。こちらの言葉に明確に表れていますように、主イェスが問いかけは、「究極、あなたの主は誰なのか?」ということです。★そして、この問いかけは、赦された罪人に過ぎない私たちが、日々の生活の中で「折々に問いかけられる問いかけだ」ということを越えて、恐らく、「自分の命、自分の人生、自分という存在」にとって「重要な選択を求められる時」に心の中に浮上してくる問いかけなのではないかと思わされます。★「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。」2019年はキリスト者個人としてだけではなく、キリスト教会として、究極、この御言葉に立つかどうかを問われる時代になるかもしれません。
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