July 2020
キリスト者は律法主義に生きるのではなく律法を生きるのです
26/07/20 00:00

[03]割礼を受けようとするすべての人たちに、もう一度言っておく。そういう人たちは、律法の全部を行う義務がある。[04]律法によって義とされようとするあなたがたは、キリストから離れてしまっている。恵みから落ちている。[05]わたしたちは、御霊の助けにより、信仰によって義とされる望みを強くいだいている。[06]キリスト・イエスにあっては、割礼があってもなくても、問題ではない。尊いのは、愛によって働く信仰だけである。[13]兄弟たちよ。あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互に仕えなさい。[14]律法の全体は、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」というこの一句に尽きるからである。★「律法によって義とされる」ことから自由にされたキリスト者は「御霊の助けにより」「(律法全体の要約)自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」を生きる者
とされるのです。
全人類に対する「死」の絶対的支配力の根拠は何?
19/07/20 00:00

[13]というのは、律法以前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪として認められないのである。[14]しかし、アダムからモーセまでの間においても、アダムの違反と同じような罪を犯さなかった者も、死の支配を免れなかった。このアダムは、きたるべき者の型である。
★この2節に対する塚本虎二先生の敷延訳が修武先生によって紹介されています。
「何故か。律法のない時代は、つまりアダム以後モーセ律法の出来るまでの間にも、罪はこの世にあったが、律法がないので、たとえ罪に当ることをしても、罪はその人の責任に帰せられず、罪の罰は受けないはずである。にも拘らず、アダムからモーセの間にアダムと同じ律法違反の罪をおかさなかったその時代の人々の上にも死が王として支配したからである。したがってこの罪と死がアダムによるものでなくてなんであろう。そして一人の行いが、全人類に影響を及ぼす点において、アダムは来たるベき者である新約のアダム、即ちキリストの型である。」
★この敷延訳の言葉からわかりますように、塚本先生は、パウロの論述から「死」が全人類に対して「あらがえない王的支配力」を持ってしまっているということを聴き取っています。まさにその聞き取り通りです。★そこで問題になるのは「何故、死が全人類に対して、それほどまでに、絶対的支配力を持つのか」ということです。★これに対する答えは「神学」に属しています。ですから「神学」によって異なると思います。私の場合は「契約神学」に立ちますので、「アダム契約」に対する違反が、その根拠であると解釈しています。
聖霊の働きを信じて、自分自身を生きるキリスト者について
05/07/20 00:00

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