July 2020
キリスト者は律法主義に生きるのではなく律法を生きるのです
26/07/20 00:00
★使徒パウロが発見した「信仰によって義とされる」ということは、より正確に言えば「律法によって義とされるのではなく、信仰によって義とされる」となります。この結果、パウロはユダヤ教から厳しい迫害を受けることになります。その理由は、上記の言葉では、律法が破棄されてしまうかのように聞こえてしまうからです。★パウロが執筆した(古典的表現を用いて)ガラテヤ書やロマ書をよく読みますと、パウロは決して律法を破棄したり、軽んじたりしてはいないのです。★ガラテヤ書第5章1節~6節,14節を読んでみましょう。[01]自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない。[02]見よ、このパウロがあなたがたに言う。もし割礼を受けるなら、キリストはあなたがたに用のないものになろう。
[03]割礼を受けようとするすべての人たちに、もう一度言っておく。そういう人たちは、律法の全部を行う義務がある。[04]律法によって義とされようとするあなたがたは、キリストから離れてしまっている。恵みから落ちている。[05]わたしたちは、御霊の助けにより、信仰によって義とされる望みを強くいだいている。[06]キリスト・イエスにあっては、割礼があってもなくても、問題ではない。尊いのは、愛によって働く信仰だけである。[13]兄弟たちよ。あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互に仕えなさい。[14]律法の全体は、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」というこの一句に尽きるからである。★「律法によって義とされる」ことから自由にされたキリスト者は「御霊の助けにより」「(律法全体の要約)自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」を生きる者
[03]割礼を受けようとするすべての人たちに、もう一度言っておく。そういう人たちは、律法の全部を行う義務がある。[04]律法によって義とされようとするあなたがたは、キリストから離れてしまっている。恵みから落ちている。[05]わたしたちは、御霊の助けにより、信仰によって義とされる望みを強くいだいている。[06]キリスト・イエスにあっては、割礼があってもなくても、問題ではない。尊いのは、愛によって働く信仰だけである。[13]兄弟たちよ。あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互に仕えなさい。[14]律法の全体は、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」というこの一句に尽きるからである。★「律法によって義とされる」ことから自由にされたキリスト者は「御霊の助けにより」「(律法全体の要約)自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」を生きる者
とされるのです。
全人類に対する「死」の絶対的支配力の根拠は何?
19/07/20 00:00
★ローマ人への手紙第5章13節、14節は、口語訳では次のようになっています。
[13]というのは、律法以前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪として認められないのである。[14]しかし、アダムからモーセまでの間においても、アダムの違反と同じような罪を犯さなかった者も、死の支配を免れなかった。このアダムは、きたるべき者の型である。
★この2節に対する塚本虎二先生の敷延訳が修武先生によって紹介されています。
「何故か。律法のない時代は、つまりアダム以後モーセ律法の出来るまでの間にも、罪はこの世にあったが、律法がないので、たとえ罪に当ることをしても、罪はその人の責任に帰せられず、罪の罰は受けないはずである。にも拘らず、アダムからモーセの間にアダムと同じ律法違反の罪をおかさなかったその時代の人々の上にも死が王として支配したからである。したがってこの罪と死がアダムによるものでなくてなんであろう。そして一人の行いが、全人類に影響を及ぼす点において、アダムは来たるベき者である新約のアダム、即ちキリストの型である。」
★この敷延訳の言葉からわかりますように、塚本先生は、パウロの論述から「死」が全人類に対して「あらがえない王的支配力」を持ってしまっているということを聴き取っています。まさにその聞き取り通りです。★そこで問題になるのは「何故、死が全人類に対して、それほどまでに、絶対的支配力を持つのか」ということです。★これに対する答えは「神学」に属しています。ですから「神学」によって異なると思います。私の場合は「契約神学」に立ちますので、「アダム契約」に対する違反が、その根拠であると解釈しています。
[13]というのは、律法以前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪として認められないのである。[14]しかし、アダムからモーセまでの間においても、アダムの違反と同じような罪を犯さなかった者も、死の支配を免れなかった。このアダムは、きたるべき者の型である。
★この2節に対する塚本虎二先生の敷延訳が修武先生によって紹介されています。
「何故か。律法のない時代は、つまりアダム以後モーセ律法の出来るまでの間にも、罪はこの世にあったが、律法がないので、たとえ罪に当ることをしても、罪はその人の責任に帰せられず、罪の罰は受けないはずである。にも拘らず、アダムからモーセの間にアダムと同じ律法違反の罪をおかさなかったその時代の人々の上にも死が王として支配したからである。したがってこの罪と死がアダムによるものでなくてなんであろう。そして一人の行いが、全人類に影響を及ぼす点において、アダムは来たるベき者である新約のアダム、即ちキリストの型である。」
★この敷延訳の言葉からわかりますように、塚本先生は、パウロの論述から「死」が全人類に対して「あらがえない王的支配力」を持ってしまっているということを聴き取っています。まさにその聞き取り通りです。★そこで問題になるのは「何故、死が全人類に対して、それほどまでに、絶対的支配力を持つのか」ということです。★これに対する答えは「神学」に属しています。ですから「神学」によって異なると思います。私の場合は「契約神学」に立ちますので、「アダム契約」に対する違反が、その根拠であると解釈しています。
聖霊の働きを信じて、自分自身を生きるキリスト者について
05/07/20 00:00
★いわゆる「受胎告知」を受けたマリアはエリサベツを訪問します。その際にマリアが語った言葉がこれです。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」★このマリアの言葉に基づいて、ルターが次のように語っています。◆神を多くの言葉や叫びや音楽でたたえようとすると、人は、神が耳が聞こえず、何も知らないかのように、また、私たちが神を眠りから覚まして教え導こうとでもいうようにするのである。◆神についてのこのような思い込みは、神を賛美するより、むしろ神をはずかしめ、栄光をそこなうことになる。◆そうではなく、神のわざを心の底から思い巡らし、驚き感謝してかえりみる人、その人は情熟によって動き出すので、語るよりも多くためいきをつき、言葉が自然に溢れ出して、(工夫してこしらえたり、語られたのでなく)外へ吹き出してくる。◆そのために、霊が泡立ち溢れるとすぐに言葉が命と手足を持つ。いや、同時に体全体、全身が喜んで語りたくなる。◆それはまさしく聖霊により真理において神をたたえることであり、そこでは言葉は火であり光であり命以外のものではない。★このルターの言葉をお聞きになって皆様はどのように感じられますでしょうか?私は思うのです。「感情表現が自然にできる人がいるし、感情表現が苦手な人もいるのだ。」「感情の働きは、一人一人違うのだから、無理をしたり、演技をしたりするのは止めよう。」「自分ができる感情表現で生きよう。」★この様にして、主なる神は、聖霊を通して私たち一人一人を個別に成長させてくださると信じます
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