牧師のページ

だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である

★聖書の中にある「箴言」は知恵の言葉として知られています。しかし、場所によっては翻訳の言葉に相違があったり、その指摘があまりにも簡潔なため、今の自分にはそれほど当てはまらないと判断されてしまう言葉もあり、それらが原因でなかなか馴染めないということが起きているかもしれません。★しかし、私は「箴言」の伝える「真理」とは次のような特質があると考えています。私たちは、主なる神様に創造された歴史の中で生きています。その歴史には最初と最後があります。その最後の時に、「箴言」の伝えるその簡潔な「真理」の指摘が「歴史を貫いて真理であったことが分かる」という特質です。★この意味で言いますと、「箴言」の伝える「真理」に対しても主なる神様は「時が来れば成就するわたしの言葉」と語られます。★2019年の終わりに、口語訳ですが、旧くて新しい言葉として次の御言葉を聞きましょう。最初に箴言第28章13節「その罪を隠す者は栄えることがない、言い表わしてこれを離れる者は、あわれみをうける。」これを受けて、第一ヨハネ第1章9節「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。」更にエペソ第5章1214節「(12)隠れて行っていることは、口にするだけでも恥ずかしい事である。(13)しかし、光にさらされる時、すべてのものは、明らかになる。(14)明らかにされたものは皆、光となるのである。」★キリスト者は、この御言葉に従って新しい年2020年を迎えることが赦されています。頌栄!

主のご降誕を心より喜びます!

神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネによる福音書第3章16節)
★この御言葉に基づいたルターのショートメッセージを聞いてください。
◆あなたはー人の人間であって、この世のー部であるから、この御言葉は、聖ペトロや聖パウロと同様、あなたにも大いにかかわることなのである。だから、「み子が与えられ、彼によって永遠の命が約束されている人々のー人に私が入っているかどうかわかるものか」などと考えてはいけない。なぜなら、それは、私たちの主なる神を偽り者にすることだからである。◆それゆえに、このような思いが浮かんだら、あなたは、悪魔がすぐそこにいるかのように十字を切って、そんな思いに惑わされないように、「なぜ、私は、ペトロでもパウロでもないのに、などと気にかけるのだろう」と言いなさい。◆もし、神がこの宝を彼らや彼らのようにそれにふさわしいような人々にだけ与えようとされたのだとしたら、彼は、それをきよく汚れのない霊である天使たちや、もしくは太陽や月にお与えになったであろう。しかし、ここには、神はみ子をこの世にお与えになったと記されており、そこに値うちがある。◆それゆえ、たとえ私がペトロでもパウロでもなかったとしても、私はこの贈物から締め出されることはないであろう。いや、ダビデやすべての使徒たちと同じほど多くをそこから得るであろう。★クリスマスの時、私が主イェス・キリストの誕生を祝うのは、ヨハネが伝えてくれた冒頭の言葉が真理であると信じる心を私が持つからである。

キリスト教信仰は「世の終わりの到来に備えよ!」と語っている

★今日の招詞はパウロがテサロニケ教会に送った手紙の挨拶文の中にある言葉です。その中でこのコラムで注目するのは「迫害と患難とのただ中で示す」キリスト者の「忍耐と信仰」に関わるパウロの言明です。
[4]…わたしたち自身は、あなたがたがいま受けているあらゆる迫害と患難とのただ中で示している忍耐と信仰とにつき、神の諸教会に対してあなたがたを誇としている。
[5]これは、あなたがたを、神の国にふさわしい者にしようとする神のさばきが正しいことを、証拠だてるものである。その神の国のために、あなたがたも苦しんでいるのである。
[6]すなわち、あなたがたを悩ます者には患難をもって報い、悩まされているあなたがたには、わたしたちと共に、休息をもって報いて下さるのが、神にとって正しいことだからである。
[7]それは、主イエスが炎の中で力ある天使たちを率いて天から現れる時に実現する。
[8]その時、主は神を認めない者たちや、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者たちに報復し、[9]そして、彼らは主のみ顔とその力の栄光から退けられて、永遠の滅びに至る刑罰を受けるであろう。[10]その日に、イエスは下ってこられ、聖徒たちの中であがめられ、すべて信じる者たちの間で驚嘆されるであろう――わたしたちのこのあかしは、あなたがたによって信じられているのである。
★この言明からわかりますように、「神の国の到来」と「主イエスの再臨」と「神によるさばきの時」との三つの事柄が、世の終わりに到来することをキリスト教信仰は明確にしているのです。「良く考えて準備しておきなさい!」との声が聞こえてきます。

キリスト者が生きることは原理的に積極的である

★「キリスト者」になったことによって、「キリスト者」が「生きること」は原理的に「積極的である」ことを確認したいと思います。★何度も確認していますが、創造主が人間に与えた使命である「被造世界の管理責任」は創世記に記されています。
[28]神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。
★この言葉の中に「神は彼らを祝福して言われた」とあります。ここから確認できますように「堕落する前の人間」は、管理責任を果たすことが出来るようにと「祝福されている」のです。結果「堕落する前」の人間は、この「祝福に押し出されて」管理責任を「積極的に」果たすことが出きていたのです。★「キリスト者(再生した者)」になったことにより、私たちは、原理的に、この出発点に立つ者とされています。つまり「キリスト者」になったことにより、まず私たちは、この「被造世界の管理責任」を再自覚するのです。★次に、私たちキリスト者は、創造主に「祝福されている」ので「積極的に、管理責任を果たすことが出来る」と分かるのです。同時に、その実現のために、インマヌエルの主が「聖霊」を遣わして下さり、私たちキリスト者がその「聖霊と共に生きること」が求められているのだ、と分かるのです。★既に「聖霊」は遣わされていますが「聖霊と共に生きること」はキリスト者の側の意志と連動しています。「共に生きよう!」というキリスト者の側の決断が待たれています。
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