主イェスの贖罪死は、「全て」主イェスを十字架につけた者たちのためである
[59]こうして、彼らがステパノに石を投げつけている間、ステパノは祈りつづけて言った、「主イエスよ、わたしの霊をお受け下さい」。
[60]そして、ひざまずいて、大声で叫んだ、「主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないで下さい」。こう言って、彼は眠りについた。
★続いて、主イェスが十字架上で語られた言葉の一つです。
[33]されこうべと呼ばれている所に着くと、人々はそこでイエスを十字架につけ、犯罪人たちも、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけた。
[34]そのとき、イエスは言われた、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」。人々はイエスの着物をくじ引きで分け合った。
★ご存知のようにこの二つの祈りは、よく比較の為に持ち出されます。ステパノの祈りである「主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないで下さい」と、主イェスの祈りである「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」とが比較されるのです。その結果、ステパノの信仰の素晴らしさが語られます。もちろん、それはそれで良いのです。★しかし、よく考えてみますと、このように比較することによって、両者の祈りが同等な祈りと考えられてしまうとしたら、それは誤りです。私の主イェス理解に間違いがないなら「父よ、彼らをおゆるしください」は、実現しています。ですから、祈られた側に必要なのは「信じて受け取ること」だけです。
歴史に繰り返される、人間が生み出す悲惨を前にして
◆神に目標を示し、時と方法を決め、自分にとって望ましいように神に向かって提案しようとする人々がいるものである。そして、彼らは、もし、それが自分の思い通りにならないと意気消沈したり、ほかに助けを求めたりしたがる。◆この人々は待ち望んでいない。彼らが主を待つのではなく、神が彼らを待ち、直ちに準備して、ちょうど彼らが思い描いていたような仕方で救うはずだと彼らは思っているのである。◆しかし、主を待ち望む人々、彼らは恵みを求めるが、いつ、どのように、どこで、何によって神が彼らを救われるかについては、神のよいみこころに委ねておく。◆彼らは救いを疑わないならば、自分で救いを名付けず、神が救いに洗礼を授け、名付けてくださるままにしておき、そこで際限もなく長い間であっても、じっと待たされているべきなのである。◆しかし、自分で救いに名を与える者には、救いは与えられない。なぜなら、彼は、神の諭しや意志やしつけを受けられないからである。★このルターの言葉からは「委ねる」という言葉と「待ち望む」という言葉が聞こえてきます。★今の世界情勢を見渡した時「和解」や「平和」という声からほど遠い地域がここかしこに存在しています。それだけでなく「解決への努力が報われない」という姿も見て取れます。当事者でない為に有効な手が撃てないもどかしさだけでなく無力感も感じています。★「マラナ・タ(われらの主よ、きたりませ)」。
「すべてのことがともに働いて益となる」について
(28)神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。
★この言葉に基づいた現実的適用のメッセージをルターに聞きます。
◆ものごとは信仰者にとってしばしば、それがすっかりだめになってしまったように見えるものであり、私たちは意気消沈せざるを得なくなることがある。しかし、信仰は常に勝利を保ち、信仰者にふりかかるあらゆる過失や危険に打ち勝つ。◆それは見える者を見えなく、聞こえる者を聞こえなくさせるが、また再び、聞こえない者を聞こえるように、見えない者を見えるようにさせるので、結局、罪を犯しても何も失うことはないのである。◆また、もし、愚かさや不注意から、つまずいたり失敗しても、神は常にそのようなことを前もって見通しておられ、その過失が覆われ、最後には幸せな良い結末を得られるように調整してくださる。信仰と祈りはそのような力をもつものである。◆いや、信仰はまことに全能で生きて働くものであるから、人はそこにあらゆる思いを委ね、みことばに信頼すべきである。どのようなことであれ、神のみこころが私たちに行われますように。
★信仰者の立ち位置によって、ルターが語っている言葉のどこに励ましと慰めを聴き取るのかは異なると思います。教会員のお一人お一人が、それぞれの段階でルターの言葉に力づけられますように!