牧師のページ

キリスト者の持つ賢さ

★箴言の中に次のような言葉があります。
(24)この地上に、小さいけれども、非常に賢いものが四つある。
(25)ありは力のない種類だが、その食糧を夏のうちに備える。
(26)岩だぬきは強くない種類だが、その家を岩につくる。
(27)いなごは王がないけれども、みな隊を組んでいで立つ。
(28)やもりは手でつかまえられるが、王の宮殿におる。
★「あり」の賢さは来るべき時に備えて前もって準備しておくということです。キリスト者の賢さも同じです。やがて到来するであろう裁きの時に備えて「主イエスの福音」を信じ、受け取りました。★「岩だぬ」の賢さは堅固な土台の上に家を建てるということです。キリスト者も同じです。自分の人生の土台に主イエス・キリストという御方を据えました。★「いなご」の賢さは、権力的存在がいなくても共同体を形成して活動できるということです。キリスト者の賢さも同じです。一人一人が、目に見えるカリスマ的存在ではなく、目に見えないキリストと結びついて、信仰共同体を形成しています。★「やもり」の賢さは何でしょう?箴言の著者に聞くしかありません。ただ、キリスト者について、御言葉にはこう記されています。「あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かしキリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである。」

確実に届いている神のご支配

★箴言第21章30,31節に次のように記されています。
(30)主に向かっては知恵も悟りも、計りごとも、なんの役にも立たない。
(31)戦いの日のために馬を備える、しかし勝利は主による。
★この御言葉は、人間の目では見ることが出来ない領域で働いている、主なる神様の御力を伝えています。この箴言を記した人物がイスラエルの王だとすれば、この王は、目に見えない領域で働いている、主なる神様の力を知っています。この王は、イスラエルを侵略しようとして近隣の国々が戦いを挑んでくる時、戦いに備えてもちろん軍馬を準備します。多くの武器も調達するはずです。賢明な将軍を立て、作戦を練るはずです。しかし、この王は、武器や軍馬の数が戦いに勝利する主因であるとは考えていません。もちろん賢い戦いをするはずですが、その賢さも勝利する主因ではありません。この王は、戦いを支配しておられる主なる神様の力が勝利する主因であると知っているのです。★この王と同じように、今この時、私達キリスト者もまた、目に見える事柄が全てではないことを知っています。どんなに目を凝らしても見ることは出来ませんが、主なる神様のご支配が、その力が、私達信仰者の周りに実在しているのです。主イエスの言葉で言い換えれば、「二羽のすずめは一アサリオンで売られているではないか。しかもあなたがたの父の許しがなければ、その一羽も地に落ちることはない。」★私達の信仰とは、この目に見えない主なる神様の力、ご支配を信じ、安息する信仰なのです。私達の心が渇き、焦り、慌てふためき、踊り出す時、先の御言葉の上に座して、充分に時間を過ごすことです。

生ける神を待ち望め

★詩篇42篇は“魂の渇き”を歌う詩篇だと言えます。作者はこう歌います。「神よ、しかが谷川を慕いあえぐように、わが魂もあなたを慕いあえぐ。」「わが魂はかわいているように神を慕い、いける神を慕う。」
★読んですぐにわかりますが、この詩篇の作者は信仰者ですから、その渇きとは虚無に落ち込んだための渇きではありません。この作者にとっての渇きは「あなた」と呼び得る「いける(生ける)神」に向かう渇きであります。ここから二つのことを考えさせられます。第一のこと、それは、信仰者もまた魂に渇きを覚えるということであります。別の表現で言えば、生ける神との交わりが持てていないという喪失感とも表現できます。だとすれば、その渇きの理由としては、生ける神との分離ないしは生ける神からの離反という現実があることになります。★第二のことは、それ故に、この信仰者の渇きには、満たしがあるということです。必ずしも“魂の渇き”が即座に満たされるとは言えませんが、必ず満たされる時があるのです。詩篇の作者はこうも歌います。「わが魂よ、何ゆえうなだれるのか。何ゆえわたしのうちに思いみだれるのか。神を待ち望め。わたしはなおわが助け、わが神なる主をほめたたえるであろう。」読んでの通りです。渇きの中で「あなた」と呼び得る「生ける神」を待ち望むのです。言葉を換えれば「満たされる時を待つ」ということです。★しかし、ただ待っているのではありません。二つの待ち方があります。一つは、渇きそのものを体験し、その体験を言語化することです。もう一つは、渇きの現実を感謝し、喜び、「あなた」と呼び得る「生ける神」を賛美することです。私は、どちらの待ち方にも意味があると考えています。大切なことは、“魂の渇き”が「生ける神」に向かっていることを知っていることです。

成長させてくださるのは生ける神のみ

★使徒パウロによれば「キリスト者は信仰的に成長し、成熟する」存在です。それを伝えているパウロの言葉がこれです。[05]アポロは、いったい、何者か。また、パウロは何者か。あなたがたを信仰に導いた人にすぎない。しかもそれぞれ、主から与えられた分に応じて仕えているのである。[06]わたしは植え、アポロは水をそそいだ。しかし成長させて下さるのは、神である。[07]だから、植える者も水をそそぐ者も、ともに取るに足りない。大事なのは、成長させて下さる神のみである。★パウロの語る言葉を使えば、パウロやアポロは「神の同労者」であります。そうしますと、パウロは次のように語っています。★たとえ自らの傍らに、目に見える神の同労者がいたとしても、成長させて下さるのは目に見えない神であり、目に見える神の同労者は取るに足りないのです。大事なのは、成長させて下さる、目に見えない“神のみ”なのです。★このパウロ言葉から浮かび上がるキリスト者の姿は、キリスト者一人ひとりが、「成長させて下さる神」と結びついている姿です。別のイメージで言えば、「神の同労者」を親亀としてその背に乗る子亀の姿ではなく「成長させて下さる神」を親亀としてその背に乗る子亀の姿です。★詩篇の作者はこう叫びます。「神よ、しかが谷川を慕いあえぐように、わが魂もあなたを慕いあえぐ。わが魂はかわいているように神を慕い、いける神を慕う。」この叫びにも似た祈りの言葉は、自らの傍らにいる「神の同労者」が無力だからではなく、自らが「成長させて下さる神」と結びついているからこそ生まれ出る、成長途上の祈りの言葉なのです。
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