March 2016
根気よく、根気よく!
27/03/16 00:00
★イースターのこの日に読みます聖書箇所はここです。
[28]あなたがたはどう思うか。ある人にふたりの子があったが、兄のところに行って言った、『子よ、きょう、ぶどう園へ行って働いてくれ』。
[29]すると彼は『おとうさん、参ります』と答えたが、行かなかった。
[30]また弟のところにきて同じように言った。彼は『いやです』と答えたが、あとから心を変えて、出かけた。
[31]このふたりのうち、どちらが父の望みどおりにしたのか」。彼らは言った、「あとの者です」。イエスは言われた、「よく聞きなさい。取税人や遊女は、あなたがたより先に神の国にはいる。
[32]というのは、ヨハネがあなたがたのところにきて、義の道を説いたのに、あなたがたは彼を信じなかった。ところが、取税人や遊女は彼を信じた。あなたがたはそれを見たのに、あとになっても、心をいれ変えて彼を信じようとしなかった。
★主イェスが語られたこの譬え話は大変短いものですが、様々な焦点を持っています。本日強調するのは「あとから心を変えて」というこの言葉です。ここでの「父」とは父なる神様のことです。この譬え話から分かりますように、父なる神様は、私たちが「心をいれ変える」ことを忍耐を持って待っていてくださるのです。★私たちの側から言えば、一人の人が「死からの復活などありえない」という姿勢から、「創造主なら起こし得る」と転換するまで、父なる神様は待っていて下さいます。根気よく証しを続けましょう。
[28]あなたがたはどう思うか。ある人にふたりの子があったが、兄のところに行って言った、『子よ、きょう、ぶどう園へ行って働いてくれ』。
[29]すると彼は『おとうさん、参ります』と答えたが、行かなかった。
[30]また弟のところにきて同じように言った。彼は『いやです』と答えたが、あとから心を変えて、出かけた。
[31]このふたりのうち、どちらが父の望みどおりにしたのか」。彼らは言った、「あとの者です」。イエスは言われた、「よく聞きなさい。取税人や遊女は、あなたがたより先に神の国にはいる。
[32]というのは、ヨハネがあなたがたのところにきて、義の道を説いたのに、あなたがたは彼を信じなかった。ところが、取税人や遊女は彼を信じた。あなたがたはそれを見たのに、あとになっても、心をいれ変えて彼を信じようとしなかった。
★主イェスが語られたこの譬え話は大変短いものですが、様々な焦点を持っています。本日強調するのは「あとから心を変えて」というこの言葉です。ここでの「父」とは父なる神様のことです。この譬え話から分かりますように、父なる神様は、私たちが「心をいれ変える」ことを忍耐を持って待っていてくださるのです。★私たちの側から言えば、一人の人が「死からの復活などありえない」という姿勢から、「創造主なら起こし得る」と転換するまで、父なる神様は待っていて下さいます。根気よく証しを続けましょう。
私達罪人の「必然」
20/03/16 00:00
★聖書が啓示する「律法」を考えた時、最も重要なのは、「律法」の大前提として、「律法」の賦与者である創造主なる神様と「律法」の受領者である「被造物である人間」との間に「愛の関係」が「ある」ということです。★律法の記述から明らかなように、律法は基本的に「~ねばならない」と記されています。この「~ねばならない」は創造主なる神様の側でも、「被造物である人間」の側でも、創造の時に締結されたアダム契約においては、「そうするのが当然」という「必然」の意味であったと推察されます。★ところが、アダムとその妻がアダム契約に違反した時以来、この「~ねばならない」は「被造物である人間」にとっては「命令」や「義務」の意味としてしか聴き取れなくなってしまったのです。その理由は、「被造物である人間」が、アダム契約に違反した時、創造主なる神様との間にあった「愛の関係」が破壊されてしまったからです。★このことを理解するためには、自らの持つ人格関係を観察すればよく分かるはずです。「愛の関係」が形成されていない人間関係の間で「~ねばならない」という言葉が語られる時には、「命令」や「義務」の意味としてしか聴き取れません。★昨今、実母の再婚相手による子供への虐待や虐待死が報道され、聴くたびに、胸が痛くなるのですが、聖書によれば、「愛の関係」の土台となる「愛」は、主イェス・キリストの贖罪の御業を通して賦与される、御霊の実であると啓示されています。聖書の言葉を用いますが、堕落した「被造物である人間」は、創造主なる神様に、愛を求めなければならないのです
。
「真の支配者」は“自由”の大切さを知っている
06/03/16 00:00
★「キリスト教は優れて倫理的な宗教である」という言葉があります。この「倫理的」という言葉が意味するのは、倫理・道徳的行為について明確な規定を持っているということでしょう。この点を確認できる一つの聖書箇所がこれです。ルターが「藁の書」と読んだヤコブ書第1章です。★(22)そして、御言を行う人になりなさい。おのれを欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけない。(23)おおよそ御言を聞くだけで行わない人は、ちょうど、自分の生れつきの顔を鏡に映して見る人のようである。(24)彼は自分を映して見てそこから立ち去ると、そのとたんに、自分の姿がどんなであったかを忘れてしまう。(25)これに反して、完全な自由の律法を一心に見つめてたゆまない人は、聞いて忘れてしまう人ではなくて、実際に行う人である。こういう人は、その行いによって祝福される。
★「御言を行う人になりなさい」というこの言葉の故に、律法行為に基づく救いの再導入と聞き取ってしまうキリスト者がいます。しかし、これは誤解です。この誤解を生む原因の中心点は、創造主なる神が全ての出発点であり、人間はその創造主に対して、契約関係の中で、応答するように創造された被造物であるという理解が定着していないからです。
★ヤコブの言葉を丁寧に聞けば「完全な自由の律法を一心に見つめてたゆまない人」なら「聞いて忘れてしまう人ではなくて、実際に行う人」になるのだ、と解釈できるのです。ここで最も重要なのは「完全な“自由”の律法」というこの「自由」です。★「自由」が保証(担保)されているからこそ、人間から「律法」に対する「応答行為」が生まれるのです。「忍耐」を知らない人達は「応答を強制したくなり」、「自由を制限」します。
★「御言を行う人になりなさい」というこの言葉の故に、律法行為に基づく救いの再導入と聞き取ってしまうキリスト者がいます。しかし、これは誤解です。この誤解を生む原因の中心点は、創造主なる神が全ての出発点であり、人間はその創造主に対して、契約関係の中で、応答するように創造された被造物であるという理解が定着していないからです。
★ヤコブの言葉を丁寧に聞けば「完全な自由の律法を一心に見つめてたゆまない人」なら「聞いて忘れてしまう人ではなくて、実際に行う人」になるのだ、と解釈できるのです。ここで最も重要なのは「完全な“自由”の律法」というこの「自由」です。★「自由」が保証(担保)されているからこそ、人間から「律法」に対する「応答行為」が生まれるのです。「忍耐」を知らない人達は「応答を強制したくなり」、「自由を制限」します。