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「真の支配者」は“自由”の大切さを知っている

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★「キリスト教は優れて倫理的な宗教である」という言葉があります。この「倫理的」という言葉が意味するのは、倫理・道徳的行為について明確な規定を持っているということでしょう。この点を確認できる一つの聖書箇所がこれです。ルターが「藁の書」と読んだヤコブ書第1章です。★(22)そして、御言を行う人になりなさい。おのれを欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけない。(23)おおよそ御言を聞くだけで行わない人は、ちょうど、自分の生れつきの顔を鏡に映して見る人のようである。(24)彼は自分を映して見てそこから立ち去ると、そのとたんに、自分の姿がどんなであったかを忘れてしまう。(25)これに反して、完全な自由の律法を一心に見つめてたゆまない人は、聞いて忘れてしまう人ではなくて、実際に行う人である。こういう人は、その行いによって祝福される。
★「御言を行う人になりなさい」というこの言葉の故に、律法行為に基づく救いの再導入と聞き取ってしまうキリスト者がいます。しかし、これは誤解です。この誤解を生む原因の中心点は、創造主なる神が全ての出発点であり、人間はその創造主に対して、契約関係の中で、応答するように創造された被造物であるという理解が定着していないからです。
★ヤコブの言葉を丁寧に聞けば「完全な自由の律法を一心に見つめてたゆまない人」なら「聞いて忘れてしまう人ではなくて、実際に行う人」になるのだ、と解釈できるのです。ここで最も重要なのは「完全な“自由”の律法」というこの「自由」です。★「自由」が保証(担保)されているからこそ、人間から「律法」に対する「応答行為」が生まれるのです。「忍耐」を知らない人達は「応答を強制したくなり」、「自由を制限」します。
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