August 2016
全的堕落という人間理解
28/08/16 00:00
★マスコミを騒がせた一人の青年の事件から、聖書が啓示している人間理解を再確認する時となりました。最初は、主イェスが語られた言葉です。「(18)口から出て行くものは、心の中から出てくるのであって、それが人を汚すのである。(19)というのは、悪い思い、すなわち、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、誹りは、心の中から出てくるのであって、(20)これらのものが人を汚すのである。(マタイ15章)」★続いてヤコブの手紙からです。「(13)だれでも誘惑に会う場合、『この誘惑は、神からきたものだ』と言ってはならない。神は悪の誘惑に陥るようなかたではなく、また自ら進んで人を誘惑することもなさらない。(14)人が誘惑に陥るのは、それぞれ、欲に引かれ、さそわれるからである。(15)欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す。(ヤコブ1章)」★キリスト者は以上の人間理解を明確に記憶するため、「神のかたち」に創造された人間が全的に堕落していると理解します。大変厳しい人間理解ですが、この「全的堕落」がいい加減に扱われる所では、至極簡単に「罪」が実を結んでしまいます。★「人間は素晴らしい無限の可能性に満ちているのだ」とだけ声高に叫んでいる時に見えなくなってしまう落とし穴です。★主の祈りの中には「わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください。」とあります。「赦された罪人」にすぎない私たちですから、「試み」に直面する時、この「全的堕落」の故に「内なる欲」が動き出し「悪しき者」のささやきに聞き従ってしまう可能性があることを主イェスはご存知なのです。ですから、キリスト者は、主の祈りを「祈る」のです。
信仰を働かせるとは
14/08/16 00:00
★有名な「信仰」に関する定義です。「さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。(ヘブル11:1)」この言葉が語っている内容を説明するために、丁度オリンピックでもありますから、オリンピック選手(アスリート)の「メンタルトレーニング」を取り上げます。★ほとんどのアスリートは、自分の出場する種目のスタートからゴールまでを思い描くというトレーニングをします。現オリンピックで言えば、団体で金メダルを取った体操の選手たちは、自らの試技の全てをもちろん身体で覚えてしまうわけですが、その土台となるのは、日々、自らの身体の全ての動きを心で思い描きつつ練習を重ねることです。ですから、ほとんどのアスリート達は競技に参加する以前に、既に何度も競技を終了しているのです。★このことを理解した上で、先の御言葉を考えますと「望んでいる事がら」とは、人間の中から生まれる自由な願望のことではなく、基本的に、神の言葉に基づいて示される「希望」のことです。ですから、時には、その「希望」を示されたキリスト者の側では「それは実現不可能」と思えるよう場合があります。そのような時に、キリスト者(信仰者)に求められているのが、神の言葉に基づいて「まだ見ていない事実を確認する」という行為です。★アスリートの人達が実践すれば「まとも」であっても、キリスト者がこの信仰を働かせると「愚か」であると評価されるかもしれません。しかし、気にすることはありません。
キリスト教信仰の核心は不変かつ不動である
07/08/16 00:00
★パウロが書いたテサロニケ人への第一の手紙の中に、次の記述があります。「主の言葉はあなたがたから出て、ただマケドニヤとアカヤとに響きわたっているばかりではなく、至るところで、神に対するあなたがたの信仰のことが言いひろめられたので、これについては何も述べる必要はないほどである。」ここから、テサロニケ教会のキリスト者たちの「信仰について」マケドニヤとアカヤ地方にあるキリスト教会のキリスト者達が「言いひろめている」ことがわかります。★それでは、どのような事柄が言いひろめられているのでしょうか。続いてパウロは「わたしたちが、どんなにしてあなたがたの所にはいって行ったか、また、あなたがたが、どんなにして偶像を捨てて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになり、そして、死人の中からよみがえった神の御子、すなわち、わたしたちをきたるべき怒りから救い出して下さるイエスが、天から下ってこられるのを待つようになったかを、彼ら自身が言いひろめているのである。」と書き記しています。ここから中心事項を拾えば、テサロニケ教会のキリスト者たちが、どのようにして、第①に、偶像を捨てて神に立ち帰り、生けるまことの神(創造神)に仕えるようになったのか、第②に、死人の中からよみがえった(復活)神の御子イエス(イエスは神の子)は、わたしたちをきたるべき怒り(最後の審判)から救い出して下さる御方(メシヤ)であると信じるようになったのか、そして第③に、この神の御子イエスはやがて天から下ってこられる(再臨)のだから、その時を待つようになったのかが言い広められていたのです。★内容について言えば、特別な事柄はありません。全て信仰の核心にある事柄です。キリスト教信仰の核心部分は時代と場所が異なっても同じなのです。