牧師のページ

福音の実際的な効果を自分のものとする

★新約聖書の中で、「福音」を聴き取る事ができる聖書個所は数多くあると思います。そのような中でも、特に「福音」が生きて働くことを確認できる聖書箇所があります。それが、ヨハネの第1の手紙第1章6節9節です。
[06]神と交わりをしていると言いながら、もし、やみの中を歩いているなら、わたしたちは偽っているのであって、真理を行っているのではない。
[07]
しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。
[08]
もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。
[09]
もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。
★特に9節に注目してください。「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。」この言葉に、「福音」が生きて働くことを確認していただけるのではないしでしょうか。主イエスをキリストと信じる者は、主なる神様に対して自分の罪を告白することにより、罪が赦され、すべての不義からきよめられるのです。まさに「福音」の持つ実際的な効果が自分自身の中に及ぶのです。

縦(神と私)の関係

★今朝は、主イエスの語られた言葉と日本人の宗教感覚を考えたいと思います。キリスト者であれば良く知っている主イエスの語られた言葉がこれです。
(14)あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。
(15)また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのである。
(16)そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。
★キリスト者は、恐らく、御言葉に従い、御言葉に生きることを願い、主イエスに倣う生き方を目指します。そうしますと、ほとんどの場合、日本人の多くはキリスト者そのものを褒めてくださいます。もちろん、キリスト者は、人に褒めてもらうことを目指して主イエスに倣う生き方をしているのではありません。にもかかわらず、「天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」という結末になることはまれなのです。もちろんそれ自体が悪いわけではありません。そうなのですけれども、キリスト者自身は、おさまりの悪い思いをします。どうしてなのでしょうか?★「赤信号皆で渡れば怖くない」という言葉が日本人の生き方の土台にあるとしたら、人生を計る物差しが常に「横(人間相互)の関係」なのだな、と思えてきます。逆に言えば、「縦(神と私)の関係」を意識することはとても希なことだとなります。人生を計る物差しが「縦の関係」なのだということを、長い年月をかけて地道にお伝えすることが、キリスト教会の証しの姿なのかと強く思わされます。

自分の人生を支える土台

★詩篇第90篇の作者は、次のように語りました。
[09]われらのすべての日は、あなたの怒りによって過ぎ去り、われらの年の尽
きるのは、ひと息のようです。
[10]われらのよわいは七十年にすぎません。あるいは健やかであっても八十年でしょう。しかしその一生はただ、ほねおりと悩みであって、その過ぎゆくことは速く、われらは飛び去るのです。
[11]だれがあなたの怒りの力を知るでしょうか。だれがあなたをおそれる恐れにしたがってあなたの憤りを知るでしょうか。
[12]われらにおのが日を数えることを教えて、知恵の心を得させてください。
★私たち人間の持つ「いのちの時間」が、主なる神様の御支配の中にあること、「いのちの時間」がいとも簡単に過ぎ去ってしまう短いものであること、そして「いのちの時間」が労苦に満ちていることを詩っています。★しかし、この詩は、虚空に向かって言葉を発しているのではありません。自らの心情を告白できる「創造者」をしっかりと捕えているのです。そして、その「創造者」に向かって、「知恵の心を得させてください。」と願っているのです。私の理解を言えば、創造主からの「知恵」を得れば、「いのちの時間」を「意味あるものできるはずだ」という確信がこの詩人の中にあるのです。★私たち人間は「何も持たない」のではありません。「創造主による被造物である」という明確な身分を持っているのです。この人生の土台とも言うべき身分が持つ意味を、「御言葉(聖書)」からしっかりと聴き取りましょう。そこに「知恵の心」が隠されています。

生の意味を問う相手は自分の外側にいる創造主

★今朝は、現代の抱える問題でありつつも、解答へ向けた努力や関心が表面化されない事柄を持ち出します。「歴史の中に刻む自分の“生”にはいかなる意味があるのか?」。聞いての通り、とても大きな問いです。そう簡単には答が出せそうもない問いです。とは言え、この問いは、今を生きている私たち一人一人が、繰り返し問いかけてきた問いであると私は考えています。★自分の外側に、高度経済成長というレールがあり、そのレールの上で動く乗り物に乗るか、その乗り物にフックをかけて並走してさえいればよかった時には、この問いは意識を捕えることはありませんでした。しかし、経済成長が縮小してしまった現在、乗り物自体がその数を減らしてしまいました。そのような事態の中で、先ほどの問いが私たちの意識を捕え始めたのです。★ここから私たちが気づくべきことがあります。それは、自分の“生”の持つ意味を、経済的な視点からのみ考え過ぎているということです。真理はとても単純なのです。主なる神様は、聖書を通して、「人はパンのみにて生きるのではない」と啓示してくれています。経済性を否定する言葉ではありません。経済性のみが人生の全体を支えているという視点が間違っていることを啓示しているのです。★わたしたちの“生”は、とても豊かな意味を持っています。教育の点数や営業の成績に置き換えられたりできるものではないのです。現在話題になっている遺伝子自体に置き換えられたりできるものではないのです。★意味を持ってこの世界を創造された主(創造主)の口から出る言葉一つ一つを聞くことをせずに、自分の“生”の意味を考えるなら、答は混迷に入り込んでしまいます。
RapidWeaver Icon

Made in RapidWeaver