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創造主なる神は沈黙しておられない

★最近あまり耳にしませんが、「神の沈黙」という言葉があります。この言葉を一番最初に用いた人の意図が何であれ、キリスト者の間でそれぞれの意味を与えられ、市民権を得ているように思えます。★そこで問いです。創造主なる神は、本当に沈黙しておられるのでしょうか?この問いに対する答えは、人それぞれかもしれませんが、私は、創造主なる神は沈黙しておられないと理解しています。なぜなら、創造主なる神は、聖書を通して、いつでも私達に語りかけておられるからです。むしろ問題なのは、聞く側の私達信仰者が、聴く耳を持っているか、或は聴こうとする意志を持っているか、ということです。★申命記に登場します有名な言葉は「イスラエルよ聞け」であります。また、黙示録に頻繁に登場していたのは、栄光化された主イエスの言葉「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい(口語訳)」であります。★ここから、蛇に象徴されたサタンが、既に語られていた創造主なる神の言葉と正反対の言葉をアダムの妻に語りかけたことの意図が理解できます。被造物の冠であり、文化と歴史の形成を命じられ、被造世界の管理を委ねられた人間が、その使命を果すために、誰の口から出る言葉を聞かなければならないのかは、明白なのです。★サタンと戦われた主イエスは「人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるため‥(申命記)」との言葉を受けて、「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」と語られました。これは、「神の沈黙」はないことの典型だと理解しています。

命が続く限り、私達と共にあるミッション

★大きな枠組みで考えましょう。ことあるごとにお伝えしていますが、創世記1章にこうあります。[28]神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。これは、文化・歴史形成命令とも呼ばれ、主なる神様から被造物である人間に対して与えられたミッションであります。これが社会的責任の根拠です。歴史的順序から言えば、その後、人間は主なる神様との間で結んだアダム契約に違反し、有罪となります。この罪の問題を解決するために、女の子孫(=メシヤ:救い主)の登場が約束され、原始福音と呼ばれています。つまり、罪の問題を解決してくださるお方(=メシヤ:救い主)の登場が救済であり、その登場を伝える言葉が福音です。★この大きな枠組みから言えば、文化・歴史形成命令(=ミッション)が与えられたのは、人間が契約に違反する前のことです。しかも、人間が契約に違反した後も、このミッションは取り去られていません。つまり、キリスト者であれ、非キリスト者であれ、この世に生きる人間は、依然として、このミッションの下にあるのです。★もちろん、主なる神様は、与えたミッションがどのように果たされたのかを問う時を定めておられます。その定めの時が、この世の時間で言えば終末の時であり、創造の視点から言えば、完成の時となります。★この意味で言えば、キリスト者は、このミッションを果すために、主なる神様と和解した(救われた)被造物として、自分の命を使うのです。この場合、自分自身の命の終りが先か、終末の時の到来が先かは関係がありません。キリスト者は、社会的責任を果すというこのミッションは、委ねられた自分の命が続く限り、私達と共にあるのです。

“同伴者”と共に歩む

★主イエスの語られた約束の言葉にこうあります。「わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。それは真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである。」この言葉に基づくなら、キリスト者の日々の歩みに伴って下さるのは、「真理の御霊」である「助け主」です。聖書では「聖霊」とも言われます。この約束の言葉を土台にして、使徒パウロは「御霊によって歩きなさい。」と勧告しています。★ところが、主イエスによる別の約束の言葉にこうあります。「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである。」この言葉に基づくなら、主イエスご自身が、キリスト者の日々の歩みに伴って下さいます。★これに対して、一方に「どう理解するのでしょう?」と問うキリスト者がおり、他方「真理の御霊」が、或は「主イエスご自身」が「共にいてくださる」のだから、私達「キリスト者は、どう生きるのでしょう?」と問うキリスト者がおられます。ご理解いただけると思いますが、キリスト者にとっては、両者共に必要な思索・思考であります。★そして、今朝は、後者です。目には見えませんが「同伴者がいてくださる」ということを思い巡らしましょう。私達の罪や欠点を暴き出すためだけに遣わされてきている「助け主」ではありません。その罪や欠点からの解放と成長を、私達に与えるために同伴してくださるのです。
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