February 2012
怒りの根っこにあるもの
26/02/12 00:00
★今朝は箴言第14章より「怒り」に関する言葉を拾います。先ずは17節です。[17]怒りやすい者は愚かなことを行い、賢い者は忍耐強い(口語訳)。★この17節が示していることは次のように言えます。「怒り」は忍耐の欠如を意味します。従って、すぐに行動化します。そして、その行動はおおむね愚行に向かうのです。★この指摘はまことに鋭いと思わざるをえません。大きな例で言えば「義憤」があります。社会正義の名のもとに、自らの怒りは義憤だと考え、その怒りを正当化させ、怒りを爆発させたとします。そうした場合、余程の忍耐がありませんと、たいがい反社会的な行動として表面化します。社会正義から出発して、反社会的行動で終わってしまうという愚行です。★小さな例で言えば、日々の生活の中で、小さな正義を振り回すことです。もちろん、義に生きることを軽んじているのではありません。創造主の御前にあって、義に生きることは人間として当然のことです。そして、この「人間として当然」という所で、私たちは醜くなるのです。「当然」なのですから、そこで事態は完結しているはずなのです。ところが、知らず知らずのうちに、自らが義に生きるていることに対して対価を要求しているのです。良く知られている対価は二つあります。第一に、自分と同じように、「あの人」も義を生きるべきだと要求することです。第二に、義に生きている自分は、もっと正当に評価されるべきだと要求することです。この対価を得られない場合、心に小さな怒りが生まれているはずです。そして、その怒りこそが「対価を要求する思い」の根っこなのです。
「恵みの輝く朝」より
19/02/12 00:00
★よく「生きているのではなく生かされているのだ」と言われます。特に、高齢の人は長く生きてさまざまな困難も経験しているだけに、その感慨にとらわれることが多いことでしょう。それは自分の意志を超えた別の意志、つまり、神の意志によって生かされていることを感じとることにほかなりません。★私たちはこの地上に人として生まれ、一度限りの人生を送ります。それは一回限りのことです。なんと厳粛なことかと思います。それは、意味を持って与えられたその人の重い一生です。★しかし、残念なことに、生きてそこにいることが否定されているような境遇に置かれている人達がいる世の中です。いじめや虐待に遭っている子供たち、孤独を強いられているお年よりたちにそれを見ます。高齢者がこの世の不条理と理不尽さを長く生きたがゆえに知るとしたら、それは人生の皮肉と言うへきかも知れません。★ここに「あなたはそこにいていいんだよ」というメッセージを込めた、まどみちおの詩があります(『ポケット詩集』童話社)ぼくが ここにいるとき/ほかの どんなものも/ぼくに かさなって/ここに いることは できない/もしも ゾウが ここに いるならば/そのゾウだけ/マメが いるならば/その一粒の マメだけ しか/ここに いることは できない/ああ このちきゅうの うえでは/ここに だいじに/まもられているのだ/どんなものが どんなところに/いるときにも/その「いること」こそが/なににも まして/すばらしいこと として★人が生きてそこにあることは、意味あってのことです。たとえ厳しい情況にあったとしても、そうなのです。聖書の神様は、わたしたちに、「あなたはそこにいていいのだよ」と今も言っておられます。
(野田 秀先生の文章より抜粋)
(野田 秀先生の文章より抜粋)
誰とも同じではない自分が生きている
05/02/12 00:00
★私が最初にマタイによる福音書第25章に記された「タラントの譬え」を学んだ時、それは、救済論だけから読み解くことでした。その時は、それで納得していたのでしょうが、しだいに、それだけでは、どうしても心に落ちない思いを持つようになりました。★預けられた財産に対する決算の場面を描いているのが次の個所です。[19]だいぶ時がたってから、これらの僕の主人が帰ってきて、彼らと計算をしはじめた。[20]すると五タラントを渡された者が進み出て、ほかの五タラントをさし出して言った、『ご主人様、あなたはわたしに五タラントをお預けになりましたが、ごらんのとおり、ほかに五タラントをもうけました』。[21]主人は彼に言った、『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』。[22]二タラントの者も進み出て言った、『ご主人様、あなたはわたしに二タラントをお預けになりましたが、ごらんのとおり、ほかに二タラントをもうけました』。[23]主人は彼に言った、『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』。★これは、創世記に啓示されている社会的責任の根拠である文化形成命令が、人間一人一人によって、如何に果されたのか、ということが問われている場面に思えるのです。私たち一人一人は、創造主によって、命を与えられ、異なる賜物を与えられ、異なる時代と状況を与えられ、生かされています。私たちは、常に「与えられている自分、人とは異なる自分をどう生かすのか」という課題に生きているということです。