牧師のページ

万物の中にあるキリスト者(私)という存在の価値

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★現代に生きる私たちは、知らず知らずの内にこの世を支配する原理の下に生きてしまいます。その一つが「競争原理」です。この「競争原理」とは、本来、スポーツの世界で「運動能力(だけではありませんが)の高い者が勝つ」です。★ところが、この「競争原理」が、いつのまにか「人間の存在を意味付ける分野」にまで及んでいます。もちろん、その背後にあるのは「適者生存」という考え方です。★人間の存在価値を人間を出発点にして考える限り、恐らく、この「適者生存」という考え方に行き着くでしょう。★これに対して、キリスト者は、「創造主」を出発点に持っているということを確固たる基礎に据えましょう。パウロの言葉にこうあります。[15]御子は、見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生れたかたである。[16]万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである。[17]彼は万物よりも先にあり、万物は彼にあって成り立っている。[18]そして自らは、そのからだなる教会のかしらである。★パウロの言葉に立てば、直訳しますと、キリスト者(私)はキリストの体である教会の一部である。このキリストの体のかしらはキリストである。万物は、天にあるものも地にあるものも、このキリストにあって(εν)、このキリストを通って(δια)、そしてこのキリストに至るために(εις)造られたのです。★是非、時間を取って、万物の中で、キリストと結びついているキリスト者の立ち位置をイメージしてください。万物の中で、私の存在が位置づけられていることが分かります!

「神の存在」はいとも簡単に否定されている

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★ヘブル人への手紙の著者が「信仰」について次のように定義しています。「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。」この定義が伝えているのは「信仰者」は「望んでいる事がら」を「まだ見てはいない」けれども、それは「事実なのだ」と先取りしていると、いうことです。★この定義の後、著者は「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。」と語ります。★現代人の多くは、この言葉に「非科学的」のレッテルを貼るのではないかと推察します。しかし、ちょっと待って下さい。昨日、JAXAの探査機「はやぶさ2」が小惑星「リュウグウ」に着陸したニュースと共に、「これで宇宙の起源について解明が進むのだ」という、かなり断定的な言葉が語られました。★この断定的な言葉は、「信仰」の定義を「類比的」に用いて、次のように語ることが出来ます。「探求する熱心とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。」★この言葉からご理解いただけますように、「熱心な探求者」は「望んでいる事がら」を「まだ見てはいない」けれども、それは「事実なのだ」と先取りしていると、いうことです。ですから「宇宙の起源について解明が進む」かどうかはまだ「事実ではない」のです。全く同じ論理構造にもかかわらず、神の存在の方はいとも簡単に否定されてしまうのです。

「ニュース」に向き合う時に必要な「ファクトチェック」の意識

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★「フェイク(虚偽)ニュース」という言葉を、かなり頻繁に耳にするようになりました。この言葉を「虚偽の情報であるにもかかわらず、あたかも真実の情報であるかのように伝えるニュース」と定義しておきます。★この定義に従えば、マスコミ上であれ、ネット上であれ、情報を発信する場において起きる出来事であります。★この問題の深刻さは、先ず第一に「フェイクニュース」を流した側が「フェイクではない」と主張し続けますから、虚偽と判定されるまでの長い期間「フェイクニュース」が、そのまま拡散してしまうということです。第二に、これは私の判断ですが、日本においては、自分に届けられた「ニュース」が「フェイクか、それとも真実か」と判断する「ファクトチェック(事実検証)」の意識が低いと考えます。私は「オレオレ詐欺」が横行てしまう背後にもこのことがあると考えます。★使徒行伝を読んでみますと「それは本当か?」という姿勢は、キリスト教信仰を持つ時に必要であります。
[10]そこで、兄弟たちはただちに、パウロとシラスとを、夜の間にベレヤへ送り出した。ふたりはベレヤに到着すると、ユダヤ人の会堂に行った。[11]ここにいるユダヤ人はテサロニケの者たちよりも素直であって、心から教を受けいれ、果してそのとおりかどうかを知ろうとして、日々聖書を調べていた。[12]そういうわけで、彼らのうちの多くの者が信者になった。また、ギリシヤの貴婦人や男子で信じた者も、少なくなかった。(使徒行伝17章)
★ここに記されていますように、ベレヤのキリスト者は「果してそのとおりかどうかを知ろうとして、日々聖書を調べた」のです。
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