牧師のページ

都エルサレムを前にして泣かれたイエス

★私たちは、ルカによる福音書に記された主イエスの涙を学びました。正確に言いますと、都エルサレムに入場する前、エルサレムの都を目の当たりにした時、主イエスは「泣かれた」のです。その時語られた主イエスの言葉。「もしおまえも、この日に、平和をもたらす道を知ってさえいたら………しかし、それは今おまえの目に隠されている。」★この「隠されている」という言葉の背後には、イザヤ書に記された次の御言葉があると受け止めました。「(1)見よ、主の手が短くて、救い得ないのではない。その耳が鈍くて聞き得ないのでもない。(2)ただ、あなたがたの不義があなたがたと、あなたがたの神との間を隔てたのだ。またあなたがたの罪が主の顔をおおったために、お聞きにならないのだ。」★摂理的な視点を脇に置き、荒野で受けられた悪魔による誘惑を下敷きにしまと、神の御子としての力を用い、滅びヘと向かうエルサレム住民の罪の心を変えることは、主イエスご自身、可能であったと考えます。しかし、それは「決して実行してはならない」ことでもあったのです。★歩み進む方向を変えて、本来いるべき場所へ立ち帰るという「悔い改め」は、罪人の側から生まれ出なければならない。この厳粛な事実の前に、主イエスも都エルサレムの住民達も立たされていました。都エルサレムに住む人々の罪がもたらす結末を知る主イエスは「泣かれた」のだと、推察いたします。★「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」

人生はコツコツがいい

★箴言第13章11節にこうあります。(11)急いで得た富は減る、少しずつたくわえる者はそれを増すことができる。当然のことかもしれませんが、この箴言に対する反証を述べる人達がいます。その反証とは「急いで得た富を大切にする人もいますよ」とか、「少しずつ蓄えていると、途中で嫌になってしまって、やめちゃう人がいますよ」というものです。もちろん私は、その種の反証を否定するつもりはありません。★とはいえ、この箴言の主旨は何なのだろうと思いを巡らしていますと、私の心に浮かび上がってくるのは次のことです。「急いで得た」とは「“苦労せずして”得た」という意味であり「少しずつたくわえる」とは「“コツコツと努力を重ねて”たくわえる」という意味なのではないか。★この推察に基づいて考えますと、私の経験の中では、確かに思い当たることがあります。これまでの歩みの中で、私は、何かを得るために苦労し努力してきたように思います。この体験は当然のことでありまして、その当然を体験した結果、得たものの重さ(価値)が認識できたのだと思います。★逆に言えば、コツコツと努力を重ねることなく、苦労せずに得てしまったものに対しては、その得たものの重さ(価値)が認識できていなかったのではないかと思います。ここで、一気に思索が広がってしまいますが、“自分にとって”得る価値のあるものは、やはり得るための努力や苦労を“自分に”要求してくるように思います。ぬれ手で粟のように人生が展開しないことの方が、やはり自然なのだと思います。

地の塩、世の光

★箴言第13章の19節に次の言葉があります。「願いがかなえば、心は楽しい、愚かな者は悪を捨てることをきらう。」新改訳も新共同訳もほぼ同じです。★この箴言は、一読して何を意味するのか、即座には理解できない面があります。しかし、前半部分と後半部分とを繋げて、意味の通る文章を作り出すことを考え始めますと、一つの答えを見いだします。それはこうです。「願いがかなえば、心は楽しい。それ故、愚かな者は悪を捨てることをきらう。」いかがでしょうか。★このように解釈しますと、この箴言は、なぜ愚かな者が悪を捨てることをきらうのか、その理由を述べていることになります。ある悪しき願いをかなえようとして、事を計画します。計画通りことは進み、見事にその計画が実現します。もちろん、願いがかなったわけですから、心は楽しみます。一般で言う「悪の味を占める」という体験です。★このように考えますと、「願いがかなえば、心は楽しい」という体験は、人を善の道にも、悪の道にも運ぶ力となり得ることがわかります。この意味で言いますと、「願いがかなう体験」を正しい意味で習慣づけるか、悪い意味で習慣づけるかが知恵となります。★もちろん、私たちは、正しい意味で習慣づけすることを決断します。私たちは実行可能な「小さな正義」を計画しましょう。それを実行し、計画の実現を味わい、心を楽しませましょう。大それた計画でなくてよいのです、ごくごく小さくても、塩は塩として、光は光として、世にあって責任を果たせるのです。
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