牧師のページ

死のからだでありつつ義とされていることが聖化の出発点

★少々長い文章の書き出しです。信仰によって義とされ、律法主義から解放され、救いを受け取ったキリスト者は、自分自身が「死のからだ」であることを自覚して聖化の歩みの土台である律法を生きるのです。★パウロが「死のからだ」の特徴を次のように語っています。「すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の法則(律法)があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。」★ですから理屈を言えば、キリスト者は「死のからだ」であるが故に、救いを受け取った後、聖化の歩みが必要なのです。★このことが正しく理解されていませんと、ルターが語る次の言葉が理解できません。★悪魔は、しばしばわずかな罪をつかまえる。そうやって悪魔は、あなたが生涯をかけてしてきたよい行いをすべて覆い隠してしまうので、あなたは自分の内に、その同じ罪しか見ることができなくなる。しかし、このようなことは、あなたが悪魔との議論にはまってしまったときに起るのである。だから、キリスト者は、このような悪を及ぼす思いを軽蔑するようにして、まるごと克服しようとするのはやめなさい。なぜなら、悪魔は傲慢な霊であるから、軽蔑には耐えられないからである 。しかし、このためには、聖霊と熱心な祈りの鍛練と、また、聖書を誠実に読むことが必要である。なぜなら、悪い思いを克服して心から追い出すのは、人にできる行いではないからである。★キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則に信頼するのです。

私たちは、自分自身が知っているよりも、もっと大きく救われている

★私はこれまで、御言葉から、創造主なる神が「如何に恵み深い神」であられるかを聞き取り、その「恵み深さ」をお伝えしてきました。★次の聖書箇所を再度確認します。「その地にききんがあったのでアブラムはエジプトに寄留しようと、そこに下った。…エジプトにはいろうとして、そこに近づいたとき、彼は妻サライに言った、『わたしはあなたが美しい女であるのを知っています。それでエジプトびとがあなたを見る時、これは彼の妻であると言ってわたしを殺し、あなたを生かしておくでしょう。どうかあなたは、わたしの妹だと言ってください。そうすればわたしはあなたのおかげで無事であり、わたしの命はあなたによって助かるでしょう』★こに記されているのは「わたしはあなたの子孫にこの地を与えます」という(契約的)約束の重みを理解しないアブラムの行為です。★そこで、創造主なる神が動かれました。「主はアブラムの妻サライのゆえに、激しい疫病をパロとその家に下された。パロはアブラムを召し寄せて言った、『あなたはわたしになんという事をしたのですか。なぜ彼女が妻であるのをわたしに告げなかったのですか。あなたはなぜ、彼女はわたしの妹ですと言ったのですか。わたしは彼女を妻にしようとしていました。さあ、あなたの妻はここにいます。連れて行ってください。』★記事通りを言えば、創造主なる神からアブラムの上に恵みの働きが臨んだのです。しかし今回、この「恵み深さ」を別の表現で語ることが出来ると学びました。それは「アブラムは、自分が知っているよりも、もっと大きく救われている」のです。★これと同様に、私たちキリスト者は、自分自身が考えているよりももっと大きく救われていることを見ることになります。

「祝祷」の内容が「祝福の宣言」となっている理由について

★私たちの教会の主日礼拝の式次第の最後は「祝祷」となっていますが、牧師から語られるのは祈りではなく宣言の言葉になっています。そのことを大変分かりやすく語ってくれている文章に出会いましたので、分かち合いたいと思います。◆教会の礼拝は、牧師の祝福の言葉で終わる。そして、キリスト者の日々の生活は、この祝福を受けたところで始まる。◆この牧師の言葉は、日本語では祝祷と表現することが多い。それでもよいのであろうが、祝福を祈る祈りと理解されてしまう危険がある。◆伝統的な教会、そして聖書の本来の理解からすれば、これは祝福を告げる言葉であり、祈りではない。祈りは聴かれることもあり、聴かれないこともあると考えられやすい。しかし、祝福は、それが告げられれば、確かにそこにある。◆ひとは祝福のうちにある!主の日の翌日、あるいは、その週のうちに死ぬことがあったとしても、祝福のうちに死ぬ。厳しい試練が訪れたとしても、祝福の確信をもって戦うことができる。◆古来、この祝福の言葉として大切にされてきたのは、アロンの祝福である。「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔を向けてあなたを照らしあなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けてあなたに平安を賜るように(民数記第6章24節以下)」。◆神がみ顔をそむけられることはないのである。

終末の時を意識して使徒ペテロの言葉を聞く

★主の年の2023年、新年おめでとうございます。新年の開始に当たり、共に聞きたいのは使徒ペテロの言葉です。直接語りかけられている言葉として反芻しましょう。

(01,2)愛する者たちよ。わたしは今この第二の手紙をあなたがたに書きおくり、これらの手紙によって記憶を呼び起し、あなたがたの純真な心を奮い立たせようとした。それは、聖なる預言者たちがあらかじめ語った言葉と、あなたがたの使徒たちが伝えた主なる救主の戒めとを、思い出させるためである。
(03,4)まず次のことを知るべきである。終りの時にあざける者たちが、あざけりながら出てきて、自分の欲情のままに生活し、「主の来臨の約束はどうなったのか。先祖たちが眠りについてから、すべてのものは天地創造の初めからそのままであって、変ってはいない」と言うであろう。
(05,6)すなわち、彼らはこのことを認めようとはしない。古い昔に天が存在し、地は神の言によって、水がもとになり、また、水によって成ったのであるが、その時の世界は、御言により水でおおわれて滅んでしまった。
(07)しかし、今の天と地とは、同じ御言によって保存され、不信仰な人々がさばかれ、滅ぼさるべき日に火で焼かれる時まで、そのまま保たれているのである。
(08)愛する者たちよ。この一事を忘れてはならない。主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである。
(09)ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである
(10)しかし、主の日は盗人のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう。

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