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「祝祷」の内容が「祝福の宣言」となっている理由について

★私たちの教会の主日礼拝の式次第の最後は「祝祷」となっていますが、牧師から語られるのは祈りではなく宣言の言葉になっています。そのことを大変分かりやすく語ってくれている文章に出会いましたので、分かち合いたいと思います。◆教会の礼拝は、牧師の祝福の言葉で終わる。そして、キリスト者の日々の生活は、この祝福を受けたところで始まる。◆この牧師の言葉は、日本語では祝祷と表現することが多い。それでもよいのであろうが、祝福を祈る祈りと理解されてしまう危険がある。◆伝統的な教会、そして聖書の本来の理解からすれば、これは祝福を告げる言葉であり、祈りではない。祈りは聴かれることもあり、聴かれないこともあると考えられやすい。しかし、祝福は、それが告げられれば、確かにそこにある。◆ひとは祝福のうちにある!主の日の翌日、あるいは、その週のうちに死ぬことがあったとしても、祝福のうちに死ぬ。厳しい試練が訪れたとしても、祝福の確信をもって戦うことができる。◆古来、この祝福の言葉として大切にされてきたのは、アロンの祝福である。「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔を向けてあなたを照らしあなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けてあなたに平安を賜るように(民数記第6章24節以下)」。◆神がみ顔をそむけられることはないのである。
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