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赦すことができない自分をも赦される恵み②


★「もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう」。前回のコラムで、この御言葉は文字通り、私たちが赦すという事実を根拠として神からの赦しを要求することができる道を開いていると理解してみました。その解釈を通して私たちに明らかになったことは、ここで語られている「ゆるす」とは、主なる神様が考えておられる基準で「ゆるすなら」という意味なのだということでした。そうしますと、人間の現実と正直に向き合えば、この御言葉は私たちを絶望へと至らせます。しかし、パウロの言葉に従えば、この言葉は、キリスト者になった者をも含め、私たちを常にキリストへと導く御言葉なのです。★そうしますと、私たちとしては、人々のあやまちをゆるすことが出来ない自分が、キリストの下でゆるされるという事実を、文字通りの事実として理解し、受け止め、味わうことが必要になります。後々語られる主イエスの言葉を先取りすれば、「わたしはあなたの罪を七たびではない。七たびを七十倍するまでゆるします」という主イエスのこの言葉をひとり静まり、充分に時間をかけて、自分のこころに染み込むように聴き取ることだと考えます。そして現実の生活の中で実際にこの時間を持つことです。★その上で今度は、主イエスの赦しをこころに染み込ませていただいたその場所を原点として、わたしたちキリスト者から、意志的にゆるしを始めていくのです。このことは、あやまちをゆるされる神の実在と、共にいてくださる聖霊の実在を信じるキリスト者の聖化の歩みであります。

赦すことができない自分をも赦される恵み①


★今日は、主イエスの語られた次の言葉です。「もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう」。この言葉は「わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください」との祈りと関連しています。★今日は多くの注解者とは異なり、この御言葉は文字通り、私たちが赦すという事実を根拠として神からの赦しを要求することができる道を開いていると理解してみましょう。そうしますと、それはとんでもない解釈だと言われそうですが、そうでもないのです。なぜかと言いますと、私の理解が間違っていなければ、山上の教えとは、主なる神様が与えられた律法の本来の意図や意味を主イエスが明確に教えて下さっている言葉なのです。★わたしがお伝えしたいことはこうです。キリスト者になる前の私たちは、聖書の教える罪について、自分が考える基準で罪を考えていたはずです。しかしその後、聖書の教える罪とは、主なる神様の側が考えておられる基準であることに気付いたはずです。ですから、律法はわたしたちをキリストへと導く養育係となったのです。★これと同じことです。主イエスが言われる「ゆるす」ということは、自分が考えている基準でのことではなく、まさしく、主なる神様が考えておられる基準で「ゆるすなら」という意味なのではないでしょうか。ですから、自分の心に正直であれば、常にお手上げなのです。この御言葉は、キリスト者になった者をも含め、私たちを常にキリストへと導く御言葉なのです。

主の祈り⑥


★「わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください。」前回、この祈りの内容は「わたしたちを誘惑に会わせないで、悪しき者からお救いください。」と理解してよいのではと語りました。しかし、翻訳者は「誘惑」と翻訳せず「試み」と翻訳しました。なぜでしょうか。★ここで、ゲッセマネの園において主イエスが祈られた言葉を引用します。「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」この祈りの中に語られる「この杯」とは、直接的に言えば、主イエスご自身が既に自覚していたと推察される十字架刑による死を意味します。しかも、この杯は必ず飲み干さなければならない杯であるということも自覚していたはずです。ですから、最も合理的に言えば、この「過ぎ去らせてください」という祈りは、主イエスの口から出てこないはずの祈りであります。★私たちは合理的な思考をし、合理的な信仰生活を送ることは当然なことです。そのような中、キリスト者は、合理的な思考の結果、時に、この祈りを祈ることはおかしいという論理的帰結に至る場合があることに気付きます。しかし、そのような時、この主イエスの祈りを思い起こしましょう。主イエスがこの祈りを祈ってくださったが故に、避けることの出来ない試みを前にした時、それを避けさせてくださいと祈る道が開けているのであります。この意味で、キリスト者は、「わたしたちを試みに会わせないでください」というこの祈りを祈りつつ、霊的成長に必要な「試み」を主なる神様から受け取っていくのです。
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