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共感力

★申命記第23章に次のような律法規定があります。[24]あなたが隣人のぶどう畑にはいる時、そのぶどうを心にまかせて飽きるほど食べてもよい。しかし、あなたの器の中に取り入れてはならない。[25]あなたが隣人の麦畑にはいる時、手でその穂を摘んで食べてもよい。しかし、あなたの隣人の麦畑にかまを入れてはならない。★続いて、第24章19節以降に次の律法規定があります。[19]あなたが畑で穀物を刈る時、もしその一束を畑におき忘れたならば、それを取りに引き返してはならない。それは寄留の他国人と孤児と寡婦に取らせなければならない。そうすればあなたの神、主はすべてあなたがする事において、あなたを祝福されるであろう。[20]あなたがオリブの実をうち落すときは、ふたたびその枝を捜してはならない。それを寄留の他国人と孤児と寡婦に取らせなければならない。[21]またぶどう畑のぶどうを摘み取るときは、その残ったものを、ふたたび捜してはならない。それを寄留の他国人と孤児と寡婦に取らせなければならない。★これらの規定をイスラエルの民の心に落とすための言葉がこれです。[22]あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったことを記憶しなければならない。それでわたしはあなたにこの事をせよと命じるのである。★これは「食べるために苦労した者は、同じ苦労の中にいる隣人の必要に気づき、その必要を満たすために生きよ」ということです。しかし、この律法規定を命ぜられたのはエジプトを脱出した本人たちではなく、その子孫です。ですから、この律法規定は、「共感力」を働かせて原点を継承せよ、という暗黙の了解があるのです。愛の律法の継承には「共感力」が必要なのです。

主イェス復活の第一次証人たちの絶望と喜び

★マルコによる福音書第16章9節~11節に、次のように記されています。「(9)〔週の初めの日の朝早く、イエスはよみがえって、まずマグダラのマリヤに御自身をあらわされた。イエスは以前に、この女から七つの悪霊を追い出されたことがある。(10)マリヤは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいる所に行って、それを知らせた。(11)彼らは、イエスが生きておられる事と、彼女に御自身をあらわされた事とを聞いたが、信じなかった。〕」★10節に「イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいる」と記されています。また、11節からわかりますように、彼らは「主イェスの復活」を信じていなかったのです。ですから、彼らにとって、「泣き悲しんでいる」とは、まさに絶望のもたらす深い暗黒の状態であったと推察致します。★なぜなら、「足掛け三日」とは、歴史の時間を鳥瞰できる私たちにとってのことであって、「主イェスの復活」を信じていなかった彼らからすれば、彼らを支配していたのは、「主イェスを永遠に失ってしまったという喪失感」であったはずだからです。そしてこの喪失感の大きさは、各自が持っていた主イェスに対する期待に比例していたに違いありません。★私としては、人間的に断言しますが、この喪失感を一気に払拭できる解決策は、生きている主イェスにお出会いすることのみです。それ以外の方法はありえません。ですから、福音書に記されている通り、主なる神様は主イェスを復活させてくださり、彼らは、復活された主イェスに出会ったのです。そして、福音書に記されている通り、彼らは「見て信じた!」のです。絶望からの大転換です!

小さな事柄の中にも

★マザー・テレサの言葉を引用させてもらいます。 (女子パウロ会)
「真の愛はいつも傷つきます。
人を愛することや人と別れることは痛みを伴います。
あなたは彼らのために
死ななければならないかもしれません。
人々は結婚する時、お互いのために全てを捨てます。
子供を産む時、母親は苦しみます。
それでこそ私たちは
ほんとうに愛することができるのです。
愛という言葉は誤解され、
間違って使われています。」
★マザー・テレサは、ここで、聖書で言う愛(アガペー)に生きることの真相を語っています。率直に言ってしまえば、人が愛(アガペー)に生きようとすれば、必ず、痛みや苦しみが伴うということでしょう。言葉を換えれば、相手が生きるためには、自分の一部が死ぬ必要があり、その死が「痛み」を伴うということでしょう。「痛み」なくして愛(アガペー)に生きることはできないということです。★「マザー・テレサのように」とか「キリスト・イエスのように」という意気込みや掛け声に押し出されるというよりも、目の前にある小さな事柄の中にも、主イェスがいらっしゃるというマザー・テレサの視点に、重い腰を上げて、挑戦することだと思わされます。
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