April 2017
「神は愛である」
30/04/17 00:00
★愛の章を書いたパウロですから、愛について語る次の言葉は有名です。
(12)だから、あなたがたは、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるから、あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容を身に着けなさい。(13)互に忍びあい、もし互に責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい。(14)これらいっさいのものの上に、愛を加えなさい。愛は、すべてを完全に結ぶ帯である。
★ペテロの場合はどうでしょう。
(05)それだから、あなたがたは、力の限りをつくして、あなたがたの信仰に徳を加え、徳に知識を、(06)知識に節制を、節制に忍耐を、忍耐に信心を、(07)信心に兄弟愛を、兄弟愛に愛を加えなさい。
★ヤコブの場合はどうでしょう。
(15)ある兄弟または姉妹が裸でいて、その日の食物にもこと欠いている場合、(16)あなたがたのうち、だれかが、「安らかに行きなさい。暖まって、食べ飽きなさい」と言うだけで、そのからだに必要なものを何ひとつ与えなかったとしたら、なんの役に立つか。(17)信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである。
★信仰という視点から語られていますが、「信仰には愛の実践が伴う」ということです。★すぐに忘れてしまう私ですが、キリスト教信仰はやはり「清い心と正しい良心と偽りのない信仰とから出てくる愛を目標としている」のです。
(12)だから、あなたがたは、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるから、あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容を身に着けなさい。(13)互に忍びあい、もし互に責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい。(14)これらいっさいのものの上に、愛を加えなさい。愛は、すべてを完全に結ぶ帯である。
★ペテロの場合はどうでしょう。
(05)それだから、あなたがたは、力の限りをつくして、あなたがたの信仰に徳を加え、徳に知識を、(06)知識に節制を、節制に忍耐を、忍耐に信心を、(07)信心に兄弟愛を、兄弟愛に愛を加えなさい。
★ヤコブの場合はどうでしょう。
(15)ある兄弟または姉妹が裸でいて、その日の食物にもこと欠いている場合、(16)あなたがたのうち、だれかが、「安らかに行きなさい。暖まって、食べ飽きなさい」と言うだけで、そのからだに必要なものを何ひとつ与えなかったとしたら、なんの役に立つか。(17)信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである。
★信仰という視点から語られていますが、「信仰には愛の実践が伴う」ということです。★すぐに忘れてしまう私ですが、キリスト教信仰はやはり「清い心と正しい良心と偽りのない信仰とから出てくる愛を目標としている」のです。
互いに赦し合うという御言葉に従う時とは
23/04/17 00:00
★教会はキリストの身体であるという視点から、ルターが大変興味深い表現を用いて、教会内の“あること”について語っています。★様々な障害や間違いが信者たちの間に起るはずであり、私たちは自分の歯で自分の舌を噛んでしまったり、握り挙が目に飛び込んだり、足が自分を蹴飛ばしたり、頭が壁にぶつかったり、というようなことになりがちであって、私たちはそのために腹を立てないではいられない。(その通り!)★しかし、そんな時、人はこのように考えなければならない。まあよかろう。それはあなたの会員だ。あなたの兄弟もしくは隣人だ。あなたはそれについて、いったいどうするつもりかね。彼はうっかりやったのだ。わざとやったのでも、悪気があるわけでもない。さもなければ弱さか、無分別から起ったことだ。ぶつかって、あなたはからだを痛くしているが、それだからと言ってあなたは自分の手足を切り捨ててしまうのか。(確かに!)★ほんの小さな火種があるのだ(なるほど!)。悪魔がそこに毒のある息を吹きかけたり、悪い舌をもってやって来て火をつけたりしないように、そこヘ唾を吐いて(凄い表現!)、火種を消しておきなさい。その火をそのままにしておくと後になって消すことができなくなり、静められないような争いと憎しみになって、全体に害を及ぼすようになる。なぜなら、悪魔は人が彼を阻まなければ、悪事をやめもしないし、引き下がりもしない霊だからである。★ルターが念頭に置いている御言葉はこれです。「互に情深く、あわれみ深い者となり、神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように、あなたがたも互にゆるし合いなさい。(エペソ4:32)」
信仰の持つ主体性と恩寵性
16/04/17 00:00
★主イェスを死からよみがえらせてくださった創造主の御名を心から崇め、褒め称えます!★ヘブル人への手紙第11章1節に信仰の定義とも言うべき言葉が記されています。①口語訳、②新改訳、③新共同訳の順に抜粋します。
①「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。」
②「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」
③「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」
★これらの定義を比較しますと、新改訳は口語訳や新共同訳のそれとは、微妙に異なることに気づきます。言語力不足を感じつつもその差異を述べますと、口語訳や新共同訳が語る信仰は、信仰者の側が行う判断そのものと言えます。それに対して、新改訳が語る信仰は、信仰者の側が行う判断を支え導くものと言えそうです。★この両者の微妙な相違は信仰の持つ両面性、即ち、主体性の面と恩寵性の面との相違のように思えます。復活された主イェスにトマスがお会いした時、トマスは「わが主よ、わが神よ」と告白します。この時何が起こっているかを考えますと、「わが主よ、わが神よ」と告白しているのは間違いなくトマス自身の主体性です。しかし同時に、私たちは、この告白は主イェスが疑いを持ったトマスに出会って下さった結果であるという恩寵性を感じ取るのではないでしょうか。★主イェスは「見ないで信ずる者は、さいわいである」と語られましたが、私たちの信仰の告白には、一方では聖霊による恩寵性があり、他方、信仰の主体性を生み出すのは、啓示の書である福音書の記事です。
①「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。」
②「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」
③「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」
★これらの定義を比較しますと、新改訳は口語訳や新共同訳のそれとは、微妙に異なることに気づきます。言語力不足を感じつつもその差異を述べますと、口語訳や新共同訳が語る信仰は、信仰者の側が行う判断そのものと言えます。それに対して、新改訳が語る信仰は、信仰者の側が行う判断を支え導くものと言えそうです。★この両者の微妙な相違は信仰の持つ両面性、即ち、主体性の面と恩寵性の面との相違のように思えます。復活された主イェスにトマスがお会いした時、トマスは「わが主よ、わが神よ」と告白します。この時何が起こっているかを考えますと、「わが主よ、わが神よ」と告白しているのは間違いなくトマス自身の主体性です。しかし同時に、私たちは、この告白は主イェスが疑いを持ったトマスに出会って下さった結果であるという恩寵性を感じ取るのではないでしょうか。★主イェスは「見ないで信ずる者は、さいわいである」と語られましたが、私たちの信仰の告白には、一方では聖霊による恩寵性があり、他方、信仰の主体性を生み出すのは、啓示の書である福音書の記事です。
黙示録に聴くリスク・マネージメント
02/04/17 00:00
★自分自身にとって「イエス」が「キリスト(=救い主)」であるが故に、「イエス」を「主(=キュリオス:当時、ローマ皇帝に対してのみ用いるべき称号)」と告白せざるを得ない弟子ヨハネは、結果的にパトモス島への島流しの刑に処せられました。この事実からも推察できますように、当時のローマ帝国(国家)はキリスト教会を「危険な宗教集団」と判断したわけです。★ですから、ローマ帝国側として「キリスト教会」の指導者を最優先で島流しにすることが最善のリスク・マネージメント(起こるであろう危険を最小限に留めるための対策)と考えたことは容易に察しがつきます。★この種のリスク・マネージメントが実行されるローマ帝国の中に置かれた七つのキリスト教会に対して、主イェスが伝えた言葉が黙示録(2章~3章)の中に記録されています。しかし、視点を変えて考えてみますと、ローマ帝国内にある七つのキリスト教会にとっては、主イェスの言葉こそが、リスク・マネージメントであるように思えます。★この視点から各個教会へ向けられた言葉を読みますと、一番最初に登場してくるのが、エペソ教会への言葉です。肯定的な評価が先に語られ、その後に次の言葉が来ます。「あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。そこで、あなたはどこから落ちたかを思い起し、悔い改めて初めのわざを行いなさい。もし、そうしないで悔い改めなければ…。」★大きく言いますと「信仰の自己吟味」です。「迫害の嵐が吹きすさぶ前に、自分の信仰の土台が何であるか、しっかりと自己検討せよ」と聞こえます。見えない所で動いている力が表面化しつつあります。キリスト者にとって、本質的な危険に直面する可能性があるのです。