牧師のページ

「御言葉漬け」の生活実践

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★申命記に記された「イスラエルよ聞け」の言葉です。
[04]イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である。[05]あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない。
[06]きょう、わたしがあなたに命じるこれらの言葉をあなたの心に留め、
[07]努めてこれをあなたの子らに教え、あなたが家に座している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、これについて語らなければならない。
[08]またあなたはこれをあなたの手につけてしるしとし、あなたの目の間に置いて覚えとし、
[09]またあなたの家の入口の柱と、あなたの門とに書きしるさなければならない。
★この段落から分かる事は「主を愛すること」の具体的な実践とは「唯一の主」が「命じる言葉」を大人の信仰者がまず「心に留める」ことです。その上で、その言葉を「努めて子らに教える」ことです。その「教える」機会たるや「家に座している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も」であります。最後に詳細は省略しますが、後期ユダヤ教の人たちは8節,9節も文字通り実践したのです。★以上から分かりますように、主が命じておられるのは、「御言葉漬け」の生活実践です。何故なのでしょうか?最も適切な解釈は、主の言葉は「いとも簡単に後回しにされてしまう」ということでしょう。毎日「キリスト者よ聞け」の言葉が心に響びきますように!そして、その言葉に応答出来ますように!

インマヌエルのゆえに、もはや「暗い中」を歩む必要がない

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★イザヤ書50章の「メシヤ預言」にこうあります。「主なる神は教をうけた者の舌をわたしに与えて、疲れた者を言葉をもって助けることを知らせ、また朝ごとにさまし、わたしの耳をさまして、教をうけた者のように聞かせられる。主なる神はわたしの耳を開かれた。わたしは、そむくことをせず、退くことをしなかった。」ここに語られる「わたし」が「メシヤ」です。★ヨハネによる福音書12章49,50節に主イェスご自身が語られた言葉がこう記されています。「わたしは自分から語ったのではなく、わたしをつかわされた父ご自身が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったのである。わたしは、この命令が永遠の命であることを知っている。それゆえに、わたしが語っていることは、わたしの父がわたしに仰せになったことを、そのまま語っているのである。」★イザヤは「メシヤ」のことを「しもべ」と呼んで、次ように語ります。「あなたがたのうち主を恐れ、そのしもべ(=メシヤ)の声に聞き従い、暗い中を歩いて光を得なくても、なお主の名を頼み、おのれの神にたよる者はだれか。」しかし、人間にとって「」を得ない状態は苦痛なのです。ですから「見よ、(自ら勝手に)火を燃やし、たいまつをともす者よ、皆その火の炎の中を歩め、またその燃やした、たいまつの中を歩め。」その結果「あなたがたは、これ(=本物の光)をわたしの手から受けて、苦しみのうちに伏し倒れる。」となるのです。★「すべての人を照すまことの光があって、世にきた。」今この時、私たちには、ヨハネの記すこの「」が既に与えられているのです。

幸いなるかな─キリスト者生活の骨格

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★加藤常昭先生は、マタイによる福音書第5章に記述されている「七福の教え」と同じように、ヨハネの黙示録にも七つの祝福があることに注目しています。ギリシャ語の直訳で言えば「さいわいなるかな…」と始まっています。★①「この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて、その中に書かれていることを守る者たちとは、さいわいである。時が近づいているからである。(1:3)」②「今から後、主にあって死ぬ死人はさいわいである(14:13)」③「見よ、わたしは盗人のように来る。裸のままで歩かないように、また、裸の恥を見られないように、目をさまし着物を身に着けている者は、さいわいである。(16:15)」④「書きしるせ。小羊の婚宴に招かれた者は、さいわいである。(19:9)」⑤「この第一の復活にあずかる者は、さいわいな者であり、また聖なる者である。この人たちに対しては、第二の死はなんの力もない。(20:6)」⑥「見よ、わたしは、すぐに来る。この書の預言の言葉を守る者は、さいわいである。(22:7)」⑦「いのちの木にあずかる特権を与えられ、また門をとおって都にはいるために、自分の着物を洗う者たちは、さいわいである。(22:14)」★加藤先生は、文脈を意識しながら読み、語られている「さいわい」の意味を確認することを勧めています。★大きく言えば「」と「終末」が意識されていることが分かります。「終りの時にもたらされる希望(救い)を確認しつつ(1ペテロ1章)、今を生きる。」これがキリスト者生活の骨格です。

アシジのフランチェスコの祈り

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★「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。(エペソ2:10a)」この御言葉を実践するための祈りとして、アシジのフランチェスコの祈りを一年を開始するに当たって祈りましょう。

わたしをあなたの平和の道具としてお使いください
憎しみのあるところに愛を
いさかいのあるところにゆるしを
分裂のあるところに一致を
疑惑のあるところに信仰を
誤っているところに真理を
絶望のあるところに希望を
闇に光を
悲しみのあるところに喜びをもたらすものとしてください
慰められるよりは慰めることを
理解されるよりは理解することを
愛されるよりは愛することをわたしが求めますように
わたしたちは与えるから受け、ゆるすからゆるされ、
自分を捨てて死に、永遠のいのちをいただくのですから。

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