牧師のページ

熱意を育むもの

★王位を継承したソロモン王が、主なる神様から知恵を与えられ、王国を統治したことは列王紀第3章に記されています。そのソロモン王がわが子に対して語った言葉として聴いてみましょう。(01)わが子よ、もしあなたがわたしの言葉を受け、わたしの戒めを、あなたの心におさめ、(02)あなたの耳を知恵に傾け、あなたの心を悟りに向け、(03)しかも、もし知識を呼び求め、悟りを得ようと、あなたの声をあげ、(04)銀を求めるように、これを求め、かくれた宝を尋ねるように、これを尋ねるならば、(05)あなたは、主を恐れることを悟り、神を知ることができるようになる。(06)これは、主が知恵を与え、知識と悟りとは、み口から出るからである。★これらの言葉の要点はこうです。“主が知恵を与えられる”のであって、私たちの心の内から知恵が湧き出てくるのではありません。“知識と悟りとは、あくまでも主なる神様のみ口から出る”のです。つまり私たちの外側から来るのです。ですから“銀を求めるように、これを求め、かくれた宝を尋ねるように、これを尋ねる”必要があるのです。★この言葉を聞いた私たちにとっての困難とは何でしょうか?私について言えば、知恵が外側から来ることを認めるのはそれほど困難ではありません。恐らく、私にとっての困難は“銀を求めるように、これを求め、かくれた宝を尋ねるように、これを尋ねる”という心の姿勢に欠けることです。熱意、情熱、熱心。心のエネルギーとも呼べるこれらを与える錠剤はありません。コツコツと主なる神様と対話を重ねることだと推察します。

イスラエルの民の失敗から学ぶ

★イスラエルの民が繰り返し学んだことが箴言の中に記されています。★(24)わたしは呼んだが、あなたがたは聞くことを拒み、手を伸べたが、顧みる者はなく、(25)かえって、あなたがたはわたしのすべての勧めを捨て、わたしの戒めを受けなかったので、(26)わたしもまた、あなたがたが災にあう時に、笑い、あなたがたが恐慌にあう時、あざけるであろう。(27)これは恐慌が、あらしのようにあなたがたに臨み、災が、つむじ風のように臨み、悩みと悲しみとが、あなたがたに臨む時である。(28)その時、彼らはわたしを呼ぶであろう、しかし、わたしは答えない。ひたすら、わたしを求めるであろう、しかし、わたしに会えない。(29)彼らは知識を憎み、主を恐れることを選ばず、(30)わたしの勧めに従わず、すべての戒めを軽んじたゆえ、(31)自分の行いの実を食らい、自分の計りごとに飽きる。★近代理性は、この種の言葉を「脅し」と理解します。また、キリスト教の異端と呼ばれるグループもこの種の言葉を恐怖心と共に植え付けますから、近代理性の主張も全く的外れということではありません。★私の場合、この種の言葉を理解する文脈は、主なる神様と神の民イスラエルとの間の「契約関係」です。イスラエルの民は異邦の民にとっては視聴覚教材の位置に立たされていると理解しますから、祝福条項も呪い条項も、即座に宣告され具体的に歴史化します。そして、その事態を見聞きするのが私たち異邦人であり、私たち異邦人は、その事態を見聞きして、主なる神様という御方を知ることが求められているのです。★今日の箴言は、神の民イスラエルの失敗から「神の言葉の重み」を学べと語りかけています。

まず、主なる神様のみ声を聴く

★(20)知恵は、ちまたに呼ばわり、市場にその声をあげ、(21)城壁の頂で叫び、町の門の入口で語る。(22)「思慮のない者たちよ、あなたがたは、いつまで思慮のないことを好むのか。あざける者は、いつまで、あざけり楽しみ、愚かな者は、いつまで、知識を憎むのか。(23)わたしの戒めに心をとめよ、見よ、わたしは自分の思いを、あなたがたに告げ、わたしの言葉を、あなたがたに知らせる。」★この「箴言」の言葉からも理解されますように、知恵文学と呼ばれる「箴言」は、知恵を“人格的”に描いています。その理由は、単に文学的手法であることを越え、知恵が「現実に人格となる(イエス・キリストの受肉)」ことを予表していると思えます。もちろんこれはキリスト教的な視点ですが。★この視点を受け止めていただけますと、被造物である人間にとっては、「相互にコミュニケーションをする」という点が、最も重要であるように思えます。しかも「知恵は…呼ばわり…声をあげ…叫び…語る」とありますように、まず最初に、向こう側(主)から、こちら側(私たち)に語りかけて来るという順序があるのです。この順序は、旧新両約聖書を一貫している事柄であると私は理解します。ですから、「イスラエルよ聞け!」であり、「信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである」、となります。★昨今のインターネット事情に限られたことではありませんが、私たちを人格的存在として創造してくださった御方との間のコミュニケーションを土台とすることなく、横の関係における言葉を聞くことは、膨大な数の価値基準が提示されている展示場の中で、途方に暮れてしまうだけのように思えます。

主よ、律法を守らせてください

★先ず最初に、箴言に記された知恵の言葉です。「わが子よ、悪者があなたを誘っても、それに従ってはならない。彼らがあなたに向かって、『一緒に来なさい。われわれは待ち伏せして、人の血を流し、罪のない者を、ゆえなく伏してねらい、陰府のように、彼らを生きたままで、のみ尽し、健やかな者を、墓に下る者のようにしよう。われわれは、さまざまの尊い貨財を得、奪い取った物で、われわれの家を満たそう。あなたもわれわれの仲間に加わりなさい、われわれは共に一つの金袋を持とう』と言っても、わが子よ、彼らの仲間になってはならない、あなたの足をとどめて、彼らの道に行ってはならない。★この言葉の背後には、十戒の中の第六戒「あなたは殺してはならない。」と第七戒「あなたは盗んではならない。」があります。極めて具体的で分かりやすい十戒の具体的適用であります。★ここで、使徒パウロの言葉に耳を傾けるなら、人がこれらの戒めを破る時、同時に、第十戒「隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない(新共同訳)。」をも必ず破っています。★使徒パウロは正直に告白しています。この第十戒に直面した彼は、自分が到底十戒を守れない事に気付くわけです。大きく要点を言えば、十戒は、「欲する」という人間に与えられた機能が、既に正常に機能しなくなっていることを教えてくれるわけです。★「律法を守らねばならない」という位置から、「主よ、律法を守らせてください」という位置に転換することなく「律法による義」を生きる事は、負いきれない重荷です。そしていつしか必ず手を抜きます。★「主よ、律法を守らせてください」という位置に立ち、御霊によって日々新しく造り変えられていく信仰の戦いと正しく取り組みましょう。
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