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イスラエルの民の失敗から学ぶ

★イスラエルの民が繰り返し学んだことが箴言の中に記されています。★(24)わたしは呼んだが、あなたがたは聞くことを拒み、手を伸べたが、顧みる者はなく、(25)かえって、あなたがたはわたしのすべての勧めを捨て、わたしの戒めを受けなかったので、(26)わたしもまた、あなたがたが災にあう時に、笑い、あなたがたが恐慌にあう時、あざけるであろう。(27)これは恐慌が、あらしのようにあなたがたに臨み、災が、つむじ風のように臨み、悩みと悲しみとが、あなたがたに臨む時である。(28)その時、彼らはわたしを呼ぶであろう、しかし、わたしは答えない。ひたすら、わたしを求めるであろう、しかし、わたしに会えない。(29)彼らは知識を憎み、主を恐れることを選ばず、(30)わたしの勧めに従わず、すべての戒めを軽んじたゆえ、(31)自分の行いの実を食らい、自分の計りごとに飽きる。★近代理性は、この種の言葉を「脅し」と理解します。また、キリスト教の異端と呼ばれるグループもこの種の言葉を恐怖心と共に植え付けますから、近代理性の主張も全く的外れということではありません。★私の場合、この種の言葉を理解する文脈は、主なる神様と神の民イスラエルとの間の「契約関係」です。イスラエルの民は異邦の民にとっては視聴覚教材の位置に立たされていると理解しますから、祝福条項も呪い条項も、即座に宣告され具体的に歴史化します。そして、その事態を見聞きするのが私たち異邦人であり、私たち異邦人は、その事態を見聞きして、主なる神様という御方を知ることが求められているのです。★今日の箴言は、神の民イスラエルの失敗から「神の言葉の重み」を学べと語りかけています。
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