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主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う

★婦人祈祷会からのおすそ分けです。詩篇第1篇1節~3節です。
[01]悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。
[02]このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う。
[03]このような人は流れのほとりに植えられた木の、時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える。
★山上の説教に倣うなら、「さいわいなるかな、悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人」となります。そこで問いです。「どうしたら、悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ」ことが出きるのでしょうか?★答えは、とても単純です。「主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う」ことです。これが唯一の秘訣です。他にはありません。「主のおきて」を「主なる神様の約束の言葉」と置き換えれば「時が来ると実を結び」の意味が、更に明瞭になります。「主なる神様の約束の言葉」は「時が来れば必ず成就するのです」。これが「神の口から出る言葉の持つ真実」です。だとすれば、必要なのは「主なる神様の約束の言葉」を「信じて、期待して、待つこと」です。★「流れのほとりに植えられていた木」がそこから抜き去られて、砂漠に植え換えられたと想像してみましょう!結末は、瞬時に思い描けます。この結末は、逆説的ですが、「主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う」ことを止めれば、じわじわと体験できる現実です。

神の言葉に向かって主体的に動く

★箴言の持つ意味は「知識を与えること」や「知恵を与えること」だと言えると思います。その箴言を読み始めると「耳を知恵に傾け」とか「心を悟りに向け」とか「知識を呼び求め」という言葉に出会います。これは、信仰者の側が、知恵や知識や悟りを得るために自らが動き出すことを述べています。★このように思い至って読み続けますと「銀を求めるように、これを求め」とか「かくれた宝を尋ねるように、これを尋ねるならば」という言葉に出会います。これは箴言の著者が銀や隠れた宝を見つけだすために、人間が必死になって動くことを比喩の焦点として持ち出しているからです。★一般的に言えば、人間は、金、銀、宝石を得るためなら、とてつもない情熱を注ぎます。箴言の著者は、その情熱と同じだけの熱情と真剣さとを持って、知恵や知識や悟りを求めよ、と勧告しているわけです。★この勧告に出会って、私たちは気づきます。「それと同じように」という言葉掛けをしなければならない程に、知恵や知識や悟りを得るために、私たちが主体的に動くことはないのです。★このことは、次の言葉にも通じます。「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」。もし、私たちが「あの時」に、「神の口から出る一つ一つの言で生きる」存在であるということに目が開かれなかったとしたら、私たちの人生はどうなっていたでしょうか?ですから、私たちにとって「あの時」は「恵みの時」であったのです。★今週も、私たちは、主体的に「神の口から出る一つ一つの言を求めて生きる」者として、共に、歩みましょう。
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