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旧約聖書に啓示された救いの約束を読み取りましょう!

★今年のイースター礼拝の時に省略してしまったことをここに書き記しておきます。私は「金持ちとラザロ(ルカ16:1931)」の譬え話の中にあるアブラハムと金持ちとの対話を通して、旧約聖書による救いの啓示の充分性をお伝えすることでした。
(27)そこで金持が言った、『父よ、ではお願いします。わたしの父の家へラザロをつかわしてください。
(28)わたしに五人の兄弟がいますので、こんな苦しい所へ来ることがないように、彼らに警告していただきたいのです』。
(29)アブラハムは言った、『彼らにはモーセと預言者とがある。それに聞くがよかろう』。
(30)金持が言った、『いえいえ、父アブラハムよ、もし死人の中からだれかが兄弟たちのところへ行ってくれましたら、彼らは悔い改めるでしょう』。(31)アブラハムは言った、『もし彼らがモーセと預言者とに耳を傾けないなら、死人の中からよみがえってくる者があっても、彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう』」。
★注目すべきは「彼らにはモーセと預言者とがある。それに聞くがよかろう」と「もし彼らがモーセと預言者とに耳を傾けないなら、死人の中からよみがえってくる者があっても、彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう」との言葉です。要点は「アブラハムのふところに行くために、モーセと預言者(→旧約聖書)とがある。」ということです。「旧約聖書」による啓示は充分なのです。★主イェスの言葉がこれです。「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」。こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた。」★「旧約聖書」を読みましょう。

「教理」の学びのために時間をかけることの意義

★今、わたしたちの教会では、ローマ人への手紙を読んでいます。ローマ人への手紙の内容は、大きく2つに分類することが出来ます。前半部分が第1章第11章までで、その内容は「キリスト教の教理(教義)」と要約できます。後半部分が第12章から第16章までで、その内容は「キリスト教倫理(信仰の実践)」と要約できます。今日からわたしたちが取り組むのは9章ですから、引き続き「キリスト教の教理」の内容であります。★この2つの内容構成の意図は、まず「わたしたちは何を信じるか(教理)」が先にあり、その後に「わたしたちは如何に生きる(行動するのか(倫理)」が来る、ということです。この順序は大変重要なのです。しかし、時に、主イェスが語られた次の言葉が混乱を生みます。★「にせ預言者を警戒せよ。彼らは、羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲なおおかみである。/あなたがたは、その実によって彼らを見わけるであろう。茨からぶどうを、あざみからいちじくを集める者があろうか。/そのように、すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。/良い木が悪い実をならせることはないし、悪い木が良い実をならせることはできない。/良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれる。/このように、あなたがたはその実によって彼らを見わけるのである。」★よく読めば分かりますようにこの主イェスの言葉には「良い実」の定義が具体的に語られてはいないのです。別の言い方をすれば、外側に出て来る「倫理的行為」が全く同じでも、背後にある「教理」が全く異端的であるという場合が起こるのです。ですから「倫理」の前に、時間をかけ、忍耐を持って「教理」を学ぶことは重要不可欠なのです。

「主イェスの復活」に出会った人達の証言に素朴に向き合うなら…。

★イースターにあたり、現代人である「弟子トマス」に登場してもらいました。
[24]十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれているトマスは、イエスがこられたとき、彼らと一緒にいなかった。
[25]ほかの弟子たちが、彼に「わたしたちは主にお目にかかった」と言うと、トマスは彼らに言った、「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」。
[26]八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。
[27]それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。
[28]トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。
[29]イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。
★ヨハネが書き記してくれたこの出来事の現場に私たちがいれば、弟子トマスは“わたし”である、とお考えになられる方々が多いのではないでしょうか。それほどまでに、当時でも既に「死んだ者が生き返る」ということは起こりえないと考えられていたわけです。★ですから、乱暴に聞こえますが、ことの真相は、虚偽(創作)か、誤解(錯覚)か、それとも事実の伝達か?「見ないで信ずる」という言葉が啓示の核心です。
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