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タラントの譬えが伝えていること

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★マタイによる福音書第25章には、通常「タラントの譬え」と呼ばれる譬え話が記されています。★この譬え話を用いた説教の中で、私自身、1タラントを託された僕が、2タラントや5タラントを託された僕と自分とを比較しているかのように語ってしまったことがあります。その理由は、私たち人間が比較によって劣等感を抱いて落ち込んだり、逆に、優越感を抱いて高慢になったりする現実を知っているからです。★しかし、譬え話そのものを丁寧に読めば分かりますように、この譬え話の中には「タラントを比較する」という要素はどこにもありません。この譬え話の中で最も重要な要素は「僕」が「自分の主人」をどのように考えていたのか、ということです。★つまり、「僕」の側が「自分の主人」をどのように考えていたのかによって、自分に託されているタラントの用い方が決まってしまったということです。★これは主イェスが語られた譬え話ですから、適用的に言えば、「創造主」から託された自分の人生そのもの、細かく言えば、自分の性格や種々の能力をも含めた自分という全存在をどのように生かすのかということは、自分が「創造主」をどのような御方と考えているのかということと深く関係しているわけです。★もちろん「創造主」については、聖書全体から読み取らなければなりませんが、主イェスご自身が、「わたしを見た者は、父を見たのである」と語っています。ですから、次の問いが重要です。「自分は主イェスのことをどのような御方と考えているのだろうか?」この問いに対する答えが、そのまま、自分という全存在をどのように生かすのかということと深く関係しているのです。

キリスト者は偽善者ですか?

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★私たちはしばしば「キリスト者は偽善者である」という言葉を聞くことがあります。また、キリスト者の中でも、「自分は偽善者ではないのか?」と悩んだりもします。しかし、この事は、聖書が啓示する「人間とは何か」という視点に立ってキリスト者を理解することが出来ない為に起こる事です。★創世記の啓示によれば、創造主なる神は、人間に対しても「はなはだ良かった」という言葉をかけています。視点を変えれば、「神のかたち」に創造された人間は、創造主なる神の御旨にかなう生き方を選べるように創造されたのです。ですから、本来の人間は創造主なる神の基準に従って「善である」生き方を選べたのです。★しかし、創世記の啓示にあるように、人類の代表であったアダムはヘビに象徴されるサタンの言葉を選び、契約に違反しました。それ以後、人間は、創造主なる神の言葉ではなく、自らが決めた判断基準で行動するようになってしまいました。★ですから、キリスト教の与える救いを受け取り、キリスト者になった私たちにとっての行動(行為)の出発点は、パウロの言葉を借りれば「わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。」となります。★そうしますと、もし私たちキリスト者の中から、「あいつは偽善者だ」と批判したくなるような「善き行い」が出て来ているとしたら、それは「救いの恵みの結果」であって、私たち自身の力によって生まれ出てきた結果ではないのです。★それだけではなく、私たちキリスト者から「善き行い」が出ることは、創造主なる神の御旨にかなっているのです。

御言葉(聖書)とは目に見えない世界を見るための啓示

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★次の二つの聖書箇所には、主イェスが語られた言葉が記されていますが、これら二つの中には、主なる神様が、今を生きる私たちに向けて語っておられる言葉があります。★試みる者がきて言った、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。(マタイ4:3,4)★だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。(マタイ6:3134)★これら二つの言葉を信仰によって受け入れた信仰者(キリスト者)の側の応答として、使徒パウロの言葉を聞きます。「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。」★以上のように、信仰者は、目に見える世界で、目に見えていることのみを土台にして考え判断しているのではなく、目に見える世界で、目に見えない御方のご支配が、たとえ、目に見える形で存在しないように見えたとしても、そのご支配は確かに存在しているのだと「啓示する言葉(聖書)」を土台にして考え判断するのです。
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