May 2011
舌を制御する
29/05/11 00:00
★箴言第10章の6節以下を読みますと次のような箴言が展開されています。(6)悪しき者の口は暴虐を隠す。(8)むだ口をたたく愚かな者は滅ぼされる。(11)正しい者の口は命の泉である。(13)さとき者のくちびるには知恵があり(14)愚かな者のむだ口は、今にも滅びをきたらせる。(18)憎しみを隠す者には偽りのくちびるがあり、そしりを口に出す者は愚かな者である。(19)言葉が多ければ、とがを免れない、自分のくちびるを制する者は知恵がある。(20)正しい者の舌は精銀である(21)正しい者のくちびるは多くの人を養い(31)正しい者の口は知恵をいだし、偽りの舌は抜かれる。(32)正しい者のくちびるは喜ばるべきことをわきまえ、悪しき者の口は偽りを語る。★読んでの通り、口やくちびる、そして舌が取り上げられています。もちろんこれらは、全て人間が「語る言葉」を指し示す比喩です。そして、私たちは「命」に至る言葉を語るか「滅び」に至る言葉を語るかのいずれかです。ヤコブの手紙の言葉を引けば、こうあります。「舌を制しうる人は、ひとりもいない。それは、制しにくい悪であって、死の毒に満ちている。わたしたちは、この舌で父なる主をさんびし、また、その同じ舌で、神にかたどって造られた人間をのろっている。同じ口から、さんびとのろいとが出て来る。わたしの兄弟たちよ。このような事は、あるべきでない。」★ですから、意志を働かせて、ことあるごとに、信仰と希望と愛に基づいた言葉を語ることです。これは、わたしたちにとって、大いに、やりがいのある挑戦です。
万物は、神からいで、神によって成り、神に帰するのである
22/05/11 00:00
★昨日(5/21)、旭が丘キリスト教会(姜 奇豆牧師、日本アライアンスミッション)の献堂式に出席してきました。1990年3月、ランダー宣教師による府中市での開拓から始まり、日野市旭が丘に教会堂が与えられるまで、20年の歩みがありました。とりわけ、最後の2年間の歩みは圧巻でした。旭が丘キリスト教会の会員の方々であれば、だれ一人の例外もなく、惜しみなく時間を使い、教会堂が与えられるまでの導き物語を熱く語られるに違いありません。★言われてしまえば当たり前のことなのですが、「教会堂を建てるのは、創造主なる神様の御業である」ということを、つくづく思わされたました。その理由はこういうことです。新会堂が与えられるためには、間違いなく、教会員(人間)の側で準備すべき事柄があります。新会堂積立金や新会堂特別献金、そして銀行でローンを組むことが可能である等の金銭的準備です(もちろん、これらの準備ですら大変ですが)。ところが、新会堂が与えられるためにはもう一つ別に、どうも信仰の領域があるのです。この信仰の領域とは、新会堂が与えられるために、どうしても通過しなければならない領域であるにもかかわらず、教会員(人間)の力ではどうしても通過することができない領域なのです。非常に抽象的ですが、一言で言えば、創造主なる神様が生きて働いて下さらなければ、どうしても通過できない領域なのです。聖書の出来事で言えば出エジプトの際の「紅海渡航」のような領域です。★なぜそのような領域があるのでしょうか。既に述べたことですが、それは「教会堂を建てるのは、創造主なる神様の御業である」というこの一点に尽きます。
長寿の秘訣としての忠実な労働
15/05/11 00:00
★今日は箴言第10章1節~5節です。(1)知恵ある子は父を喜ばせ、愚かな子は母の悲しみとなる。この1節から理解されることは、これから述べられる箴言(知恵)が十戒の第五戒である「あなたの父と母を敬え」を目指しているということです。しかも、この第五戒には「これは、あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く生きるためである」とあり、間違いなく長寿の祝福が語られています。★それならば、この約束は自動的な祝福なのでしょうか。そのような問いを持ちつつ2節を読みますと、こうあります。(2)不義の宝は益なく、正義は人を救い出して、死を免れさせる。(3)主は正しい人を飢えさせず、悪しき者の欲望をくじかれる。読んでの通りですが、長寿の祝福を享受するためには、約束の地で“正義”を生きることが求められています。★もう一つの事柄はこれです。(4)手を動かすことを怠る者は貧しくなり、勤め働く者の手は富を得る。(5)夏のうちに集める者は賢い子であり、刈入れの時に眠る者は恥をきたらせる子である。ここでは、ヘブル的な修辞法であるキアスムスが用いられています。A-B-B'-A'の形です。「手を動かすことを怠る者」と「刈入れの時に眠る者」がペアで、「勤め働く者」と「夏のうちに集める者」がペアです。もちろんこの場合、強調されるのは挟まれている中央のペアです。★私の理解では、「勤め働き、夏のうちに集める」とは、過酷な労働もいとわずにコツコツと忠実に責任を果す姿に読めます。与えられた仕事であれ、主体的な仕事であれ、不義を行わず、忠実に手を動かすことを止めなければ、刈り入れ時にちゃんと刈り入れることができ、長寿を得るということでしょう。
知恵にも経済法則に似た法則がある
01/05/11 00:00
★箴言9章には、言わば、知恵についての厳粛な法則が語られています。(7)あざける者を戒める者は、自ら恥を得、悪しき者を責める者は自ら傷を受ける。(8)あざける者を責めるな、おそらく彼はあなたを憎むであろう。知恵ある者を責めよ、彼はあなたを愛する。(9)知恵ある者に教訓を授けよ、彼はますます知恵を得る。正しい者を教えよ、彼は学に進む。★ここに語られていることは大きく二つあります。第一に、「あざける者」や「悪しき者」に知恵を与えようとして戒めたり責めたりすることは無駄であるということです。彼らは憎しみを抱き、戒める者を傷つけます。ですから第二に、「知恵ある者」や「正しい者」を責め、戒め、教えることです。「知恵ある者」は訓戒を受け入れ、ますます知恵を獲得しますし「正しい者」は学ぶことに精進ます。★以上のことを極く簡潔に言えば、知恵のない者はますます知恵に乏しくなり、知恵のある者はますます知恵を豊かに持つようになるのです。ここに「知恵」という言葉を「お金」という言葉に置き換えればわかりますように、知恵にも経済法則と似た面があるのです。★それでは「あざける者と悪しき者」のグループと「知恵ある者と正しい者」のグループとを分ける要素は何なのでしょうか?ヒントは10節にあります。(10)主を恐れることは知恵のもとである、聖なる者を知ることは、悟りである。この10節にありますように、詰まる所「主を恐れる心を持つ者」、「聖なる者を知る者」が知恵を求め、知恵を豊かに持つようになるのです。天地万物を創造された主なる神様を知る私たちキリスト者は、主なる神様からの戒めを豊かに受け、豊かに知恵を得たいと願います。