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安心の土台は、人の英知ではなく、神の啓示の言葉を単純に信頼することです

★子供祝福礼拝の時に選びました主イエスのお言葉にこうありました。
[15]よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない。
★多くのキリスト者が「幼な子のように」という言葉の意味を考えました。そして、多くのキリスト者がこの言葉の意味は「単純に、素直に」ということであると解釈しています。★このことを確認した上で、パウロの語りました有名な言葉です。
[29]神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。
[30]そして、あらかじめ定めた者たちを更に召し、召した者たちを更に義とし、義とした者たちには、更に栄光を与えて下さったのである。
[31]それでは、これらの事について、なんと言おうか。もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。
[32]ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。
[33]だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。
★私たちキリスト者は、このパウロの言葉を、単純に、素直に信じてよいのです。「
神がわたしたちの味方なのです。」安心の根源は、神の啓示の言葉を「単純に、素直に」信じることです。

主なる神様の側から来る約束がいつでも先行している

★今朝は、大変有名な聖書箇所に再び登場してもらいます。
[30]きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。
[31]だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                
[32]これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。
[33]まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。
[34]だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。
★33節に記された主イエスの言葉の聴き取り方には注意が必要です。一読するだけでは、私たち信仰者の側が、「まず神の国と神の義とを求める」生き方を始めるなら「これらのものは、すべて添えて与えられる」と読めてしまいます。しかし、それは誤解です。「主なる神様は、信仰者に必要なこれらのものを、すべて添えて与えて下さる」という主なる神様の約束が先にあって、その約束が信頼できるから、「まず思いわずらうのではなく、まず神の国と神の義とを求めなさい。」ということなのです。

伝道者バルトの言い換え

★まず最初にローマ人への手紙第1章16節です。
[16]わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である。
★K牧師がこの御言葉に対する神学者カール・バルトの逸話を提供しています。バルトは「わたしは福音を恥としない」というこの箇所を「私は、福音が勝利するために、思い煩わない。」と言い換えたとのことです。バルトはこうも言っているとのことです。「もし神が真実の神でなかったら、わたしたちのことを恥ずかしく思うことであろう。」そして最後にもう一つ。「福音は、自分のために一所懸命主張したり、自分を担ってくれる人間を必要としない。そうではなくて、福音を聴き、これを宣べ伝えようとする者のために、福音そのものが常に弁護し、これを支える。」★これを受けてK牧師は語ります。「福音を語り、福音を生きようとするとき、人間としての恥ずかしい思いがつきまとう。ユダヤ人であっり、知識人であったパウロも、その恥ずかしさを知っていた。だがそれに打ち克つ道は強がりでも何でもない。委ねられた福音のために思い煩わなくなること、その一点にあるのである。」★私は、最後の言葉に心が止まりました。「
福音を聴き、これを宣べ伝えようとする者のために、福音そのものが常に弁護し、これを支える。」この言葉を先に聞けば、「私は、福音が勝利するために、思い煩わない。」というこのバルトの言い換えが、彼の伝道生活に裏打ちされているのだと判断出来ます。そして、そうであるが故に、このバルトの言い換えを心に納めることが出来ます。
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