牧師のページ

三位一体である創造者を主とするのがわたしたち人間

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★朝日新聞の「折々のことば」に、「鷲田清一」さんのコメント付きで次の言葉が取り上げられました。
『ひとは自分が思っているほど、自分のために生きているわけではない。』

(「言葉が鍛えられる場所」平川克美より)

☆父親の介護を続けるなかで、慣れない調理に苦労し、やがてそれが楽しみにすらなったのに、父が逝くと、とたんに料理をする気が失せた。自分だけのために調理をするのが面倒になった。自分がここにあることの意味は他者から贈られる。そのことを身をもって知った経営者の作家は、「自己決定」「自己責任」といった概念の虚(むな)しさを思う。★このコメントの中の言葉「自分がここにあることの意味は他者から贈られる。」は至言であると思います。聖書の啓示に従えば、私達人間は「交わり」の中に生きるように創造されている存在であります。このことから展開して、私たちは、別人格と結びつく「交わり」の中にあって、自分という人格の持つ意味を確認することができると考えます。★だからと言って、「人間存在の意味や価値は単独では無であり、交わりを形成している集団が与えるものである」と主張しだしたら、これは誤りであると言わなければなりません。真の意味で「交わり」が意味を持つためには、やはり個々の人格が「自己決定権を持つ」とか「自己責任を果す」ということが「交わりの外側で」保証(担保)されている必要があると考えます。★私としては、このような視点は、究極、三位一体である創造者の存在を認め、自分は被造物なのだという理解(認知)が前提になるのではないかと考えます。

「わたしの言葉は、時が来れば必ず成就する」

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★南大沢聖研からのお裾分けです。★士師サムソンの誕生に際して、主の使いはサムソンの父マノアではなく妻の方に現れます。このことは二度繰り返されますが、これらの出来事の後マノアはこう語ります。「わたしたちは神を見たから、きっと死ぬであろう。」この夫の言葉に対して妻が答えます。「主がもし、わたしたちを殺そうと思われたのならば‥‥これらのすべての事をわたしたちにお示しになるはずはなく、また今わたしたちにこのような事をお告げにならなかったでしょう。」(士師記第13章)★出来事の全体をお読み下されば、この出来事が、主イェス誕生の時の出来事と類似した手順を踏んでいることが分かります。そして、最も興味深いのは、名前を記されていない妻の「主の使いの語った言葉に対する」態度が、御使いの言葉を聞いたマリアの態度と大変良く似ているということです。その箇所を引用すれば、「マリヤが言った、『わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように。』」★二人とも、自分に向けて語られた主からの言葉に心を向け、その言葉を信頼するという応答を示しているのです。★このように考える時、洗礼者ヨハネの誕生の際に登場した父親ザカリヤの応答とその応答に対する御使いの言葉を思い起こします。「時が来れば成就するわたしの言葉を信じなかったから、あなたは口がきけなくなり、この事の起る日まで、ものが言えなくなる。」★今朝も覚えましょう。創造主なる神様は、いつでも語っておられます。「わたしの言葉は、時が来れば必ず成就する」。

たとえ今見捨てられ感覚が働いたとしても

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★今朝は最初に聖書個所です。(01)さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅迫、殺害の息をはずませながら、大祭司のところに行って、(02)ダマスコの諸会堂あての添書を求めた。それは、この道の者を見つけ次第、男女の別なく縛りあげて、エルサレムにひっぱって来るためであった。(03)ところが、道を急いでダマスコの近くにきたとき、突然、天から光がさして、彼をめぐり照した。(04)彼は地に倒れたが、その時「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。(05)そこで彼は「主よ、あなたは、どなたですか」と尋ねた。すると答があった、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。★注目するのは主イェスが語られた「なぜわたしを迫害するのか」,「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」との言葉です。この時のパウロの行動から言えば、サウロが迫害しているのはあくまでも「キリスト者」であって、主イェスご自身ではないのです。にもかかわらず、主イェスは、あなたが迫害しているのは「わたし」であると語っておられるのです。ということは、「キリスト者」を迫害することがそのまま即「主イェス」を迫害することであるということです。★私たちはこの事実をどう理解するのでしょうか?様々な理解の仕方があるのでしょうが、明確に断言できることは、「キリスト者」と「主イェス」とは「一体である」ということです。主イェスの言葉で言えば、「あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたにおる」となります。心理学は心の記憶の中に「見捨てられ感覚がある」と言いますが、たとえその感覚が動いたとしても、「主イェスとの一体性」は事実なのです。
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