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たとえ今見捨てられ感覚が働いたとしても

pcd11021
★今朝は最初に聖書個所です。(01)さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅迫、殺害の息をはずませながら、大祭司のところに行って、(02)ダマスコの諸会堂あての添書を求めた。それは、この道の者を見つけ次第、男女の別なく縛りあげて、エルサレムにひっぱって来るためであった。(03)ところが、道を急いでダマスコの近くにきたとき、突然、天から光がさして、彼をめぐり照した。(04)彼は地に倒れたが、その時「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。(05)そこで彼は「主よ、あなたは、どなたですか」と尋ねた。すると答があった、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。★注目するのは主イェスが語られた「なぜわたしを迫害するのか」,「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」との言葉です。この時のパウロの行動から言えば、サウロが迫害しているのはあくまでも「キリスト者」であって、主イェスご自身ではないのです。にもかかわらず、主イェスは、あなたが迫害しているのは「わたし」であると語っておられるのです。ということは、「キリスト者」を迫害することがそのまま即「主イェス」を迫害することであるということです。★私たちはこの事実をどう理解するのでしょうか?様々な理解の仕方があるのでしょうが、明確に断言できることは、「キリスト者」と「主イェス」とは「一体である」ということです。主イェスの言葉で言えば、「あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたにおる」となります。心理学は心の記憶の中に「見捨てられ感覚がある」と言いますが、たとえその感覚が動いたとしても、「主イェスとの一体性」は事実なのです。
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