「空の空、空の空、いっさいは空である」ならどうするのか?⑦ 220828
[04]悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。
[06]義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。
[07]あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。
[09]平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。
★「空」を例証するためにコヘレトが持ち出した主題の中に「悲しみ・義・あわれみ・平和」が含まれています。「悲しみの除去・義の実現・あわれみの支配・平和の実現」は「実現可能な道があるはず」なのに「その道筋を見出しえない」と言う意味では「空」が当てはまっていると言えます。★しかし、この視点から主イェスが語られたこれらの言葉を読む時、大きな視点ですが、私は、主イェスという御方が、その「実現可能な道」として歴史の中に登場して下さったと読む事が出来ます。
「空の空、空の空、いっさいは空である」ならどうするのか?⑥
「空の空、空の空、いっさいは空である」ならどうするのか?⑤
[02]伝道者は言う、空の空、空の空、いっさいは空である。
[03]日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるか。
[04]世は去り、世はきたる。しかし地は永遠に変らない。
[05]日はいで、日は没し、その出た所に急ぎ行く。
[06]風は南に吹き、また転じて、北に向かい、めぐりにめぐって、またそのめぐる所に帰る。
[07]川はみな、海に流れ入る、しかし海は満ちることがない。川はその出てきた所にまた帰って行く。
★多くの人たちは「人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるか」という言葉に、仏教的意味での「空」を感じ取るのではないでしょうか。そして同時に、この言葉は確かに「否定思考」と言えます。★しかし、今日の時点で押さえておきたい事は、コヘレトは「人が労することは一切無益である」と語っているわけではないと読めるのです。続く4節~7節の内容を考えてみれば、当時のコヘレトにとって「いくら人が労しても、影響を与える事ができない領域」が語られていると読めないでしょうか?「人間、努力すればなんとかなる」という言葉は、人生の難問全てに対応出来る真理命題ではないのです。