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「空の空、空の空、いっさいは空である」ならどうするのか?①

★繰り返しになりますが、私は「コヘレト」が語る「」とは「一方で、その存在がある(実在する)事は確実だと分かるのですが、他方、その存在(の全体)をつかみ取る事が出来ない」状態と解釈しています。★前回このことを第3章に適用しました。「天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。」そして「神のなされることは皆その時にかなって美しい。」のです。ですから「美しい神のわざの時」は「間違いなく実在する」のです。しかし「永遠を思ことができる人の心は、歴史の始めから終わりまでを考えることが出来ても、人の心は、その美しい神のわざの時がいつ到来するのか」を「知る事ができない」のです。「コヘレト」にとってこれは「」となります。★では、私たちはどう考え、どう行動するのでしょうか。人間的に言えば、種々の応答が考えられます。「考え方×行動」の数だけ応答があります。先に考え方を言えば「否定的な思考」から「肯定的な思考」まであります。「肯定的な思考」の典型は、ローマ8:28です。「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。しかし、ここは少し丁寧に考えましょう。この考え方は美しい神のわざの時」は「間違いなく実在する」という方に力点を置き続けることと言えないでしょうか。多くのキリスト者はこの28節を「万事が益となる」ことがすぐには分からなくても「必ずそうなるのだと信じること」と聴き取っていると考えるからです。この考え方のキリスト者は「コヘレト」のような「」にはなりません。(続く)

「空の空、空の空、いっさいは空である」をどう読み解くのか③

★前回述べた事は、少々言葉を換えて言いますと次のようになります。「コヘレト」が語る「」とは「一方で、その存在がある(実在する)事は確実だと分かるのですが、他方、その存在(の全体)をつかみ取る事が出来ない」状態と解釈できます。★これを具体的に適用すれば「コヘレト」が「日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるか。」と語る時「コヘレト」は「益がない」だから「」だと語っているのではなく「益があることは確実なのに、その益の全容が掴めない」ことを「」だと語っているのではないかと思えます。★今日は、有名な第3章を取り上げましょう。

[01]天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。
[02]生るるに時があり、死ぬるに時があり、植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり-(中略)-
[11]神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。
  それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。

★「天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。」も「神のなされることは皆その時にかなって美しい。」も共に有名です。しかし、11節までを読み、翻訳の印象に引きずられずに聴き取りますと「コヘレト」が語っている事は次のように言えます。「美しい神のわざの時」は「間違いなく実在する」のです。しかし「永遠を思ことができる人の心は、歴史の始めから終わりまでを考えることが出来ても、人の心は、その美しい神のわざの時がいつ到来するのか」を「知る事ができない」のです。「コヘレト」にとってこれは「」です。

「空の空、空の空、いっさいは空である」をどう読み解くのか②

★NHKの「こころの時代」で「コヘレトの言葉」が放映され「空の空、空の空、いっさいは空である。」というこの言葉が読み解かれました。若松英輔師と小友 聡師の「知とこころ」に比ぶべくもない私もまた「コヘレト」が語る「」の意味を思い巡らす事となりました。★結果、現在の私には、この「」を読み解くヒントは「コヘレト」が語る「みな空であって風を捕えるようである」というこの言葉を、主イェスが語られた「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生れる者もみな、それと同じである」という言葉から読み解く事ではないかと考えました。★「風を捕えるようである」と聴きますと瞬時に「不可能」と解釈してしまいます。しかし、主イェスの言葉は「という存在」が「ある」ことは確実に「理解できる」のに「それがどこからきて、どこへ行くかは知らない」と語っています。この「という存在」が「ある」という視点を「」に加えるのです。★そうしますと「コヘレト」が語る「」とは、抽象的な表現ですが「一方でその存在がある事は確実にわかるのにも係らず、他方でその存在(全体)をつかみ取る事が出来ない」状態と解釈できます。★これを具体的に適用すれば「コヘレト」が「日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるか。」と語る時「コヘレト」は「益がない」だから「」だと語っているのではなく「益があることは確実なのに、その益の全容が掴めない」だから「」だと語っているのではないかと思えます。(次回に続く)
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