牧師のページ

「空の空、空の空、いっさいは空である」をどう読み解くのか②

★NHKの「こころの時代」で「コヘレトの言葉」が放映され「空の空、空の空、いっさいは空である。」というこの言葉が読み解かれました。若松英輔師と小友 聡師の「知とこころ」に比ぶべくもない私もまた「コヘレト」が語る「」の意味を思い巡らす事となりました。★結果、現在の私には、この「」を読み解くヒントは「コヘレト」が語る「みな空であって風を捕えるようである」というこの言葉を、主イェスが語られた「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生れる者もみな、それと同じである」という言葉から読み解く事ではないかと考えました。★「風を捕えるようである」と聴きますと瞬時に「不可能」と解釈してしまいます。しかし、主イェスの言葉は「という存在」が「ある」ことは確実に「理解できる」のに「それがどこからきて、どこへ行くかは知らない」と語っています。この「という存在」が「ある」という視点を「」に加えるのです。★そうしますと「コヘレト」が語る「」とは、抽象的な表現ですが「一方でその存在がある事は確実にわかるのにも係らず、他方でその存在(全体)をつかみ取る事が出来ない」状態と解釈できます。★これを具体的に適用すれば「コヘレト」が「日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるか。」と語る時「コヘレト」は「益がない」だから「」だと語っているのではなく「益があることは確実なのに、その益の全容が掴めない」だから「」だと語っているのではないかと思えます。(次回に続く)
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