牧師のページ

交わりの持つ意味

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ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」。(マタイによる福音書第18章20節)
この御言葉からの応用的メッセージとしてルターが次のように語っています。☆人は他の人々と交わっているときより、一人でいる方が、はるかに大きな、また多くの罪を犯すものである。私は、自分の体験からも、一人でいる間ほど多くの罪に陥ることはないと思っている。☆人は一人でいると、一つのことだけをじっと思い巡らす。そして、私たちは何かやっかいな状況に追い込まれると、ますます思い込みがひどくなって、それを実際よりさらに大きく悪いものに受け取るのである。☆自分より不幸な人は誰もいないと思い、自分のかかえている事態が悪い結末に終わると想像する。☆結局、私たちは、一人でいると奇妙な思いに取り付かれ、物事を実際より悪く解釈する。私たちは大いに痛い目に会っているー方で、他の人々は私たちよりとても幸運であり、他の人々はこのようにうまく行っているのに、私たちは逆にあらゆる苦悩と災難のなかにはまり込んでいるのだと思ってしまうのである。
★このルターの言葉には、「教会に集まり、交わりを持つ意味」が語られていると読めます。意図的ではないにしても「交わりの欠如」がもたらすものは、詰まる所、「まず事実そのものを見るのだ」というステップを飛ばしてしまい、即座に事実に対する否定的な解釈を行ってしまうと言えます。「
集会をやめることはしないで互に励まし、かの日が近づいているのを見て、ますます、そうしようではないか。(ヘブル10:25)

日常の小さなことに“こころ”を込める

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★この朝は、再びマザー・テレサの言葉を紹介します。

ベネズエラに修道会を創設したころ、
若いシスターたちの何人かが、
興奮し、少し神経質になって
私に尋ねました。
「言葉も習慣もわからない新しい国で、
私たちはどのようにやっていけるのでしようか?」
私はこう言いました。
「何も心配は要りませんよ、
あなた方は、愛の言葉、
この、だれもが理解できる言葉を
話せるではありませんか」
質問は統きました。
「何を持って行ったらいいのでしよう?」
私は答えました。
「私たちの心と、私たちの手を」

★このマザーの言葉は、キリスト者として日々、私たちは如何に生きるのかという問いかけに対する、とても明確な回答になっています。小さなことに“こころ”を込めるとは渡部和子さんの言葉にもありました。

御霊が結んでくださる実

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★今朝は「御霊の実」について考えます。ガラテヤ人への手紙第5章です。
(22,23)御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。(24)キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。(25)もしわたしたちが御霊によって生きるのなら、また御霊によって進もうではないか。
★「御霊の実」とは説明的に言えば「御霊が結んでくださる実」という意味です。つまり、メカニズムを説明することはできませんけれども、私たちキリスト者の人格の中に、御霊(聖霊)が「愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制」という実を結んでくださるということです。★このように理解した上で述べさせてもらいますと、私は「愛、喜び、平和(平安)」という実は、全面的に、主イェスにあって提供されている和解の福音を信じ受け取ることによって得られる実ではないかと考えています。★私たち人間は、アダム契約に対する違反の結果有罪となり、インマヌエルを失い、被造世界と共に虚無に陥ってしまっています。その私たちが、主イェスにあって提供されている和解の福音を通して無罪となり、永遠のインマヌエルを受け取ることが出来るのです。★信仰者によっては、喚起して喜ぶというような感情の高まを覚える人もあるでしょう。私の場合は一気ではなく、「愛されているんだよ」、「喜んでいいんだよ」、「平安を持っていいんだよ」というように心に語りかけつつ確認するような感じです。★ともかく「わたしたちが御霊によって生きるのなら、また御霊によって進もうではないか。」が実を結ぶ秘訣です。
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