May 2020
イスラエルの歴史に啓示されている「律法の目的」
31/05/20 00:00

ルターが明らかにした「信仰義認」の教理が意味すること
24/05/20 00:00

[17]わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。[18]よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。[19]それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。[20]わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。★主イェスはこの17節で「わたしは、律法や預言者を廃するためではなく、成就するためにきた」と語っておられます。この主イェスの言葉から、私は、ただ一人、主イェスだけが「主なる神様の要求する基準で律法を実行された」と解釈しています。つまり、主イェスだけが、主なる神様によって「義とされた」のです。★ですから、この「義とされる」という言葉を使うことが出来るのは、主イェスお一人です。★ローマ人への手紙(口語訳がギリシャ語に忠実)から判断しますと、パウロは、主イェスお一人が使うことの出来るこの「義とされる」という言葉を用いて、キリスト者は、「信仰」によって「義とされる」と語っているのです。これが、通常、わたしたちが「信仰義認」として理解している教理が意味することです。
主なる神様のみ前に自らの心を注ぎ出して生きる
10/05/20 00:00

★この聖句を基に、ある人物が次のように語っています。「何かがあなたがたに欠けているのなら、さあ、そこによい忠告がある。み前に心を注ぎ出してただ自由に嘆き、それが何であれ神には何も隠さないこと。あなたの親友に心のすべてを打ち明けるように、神の前に山のように悩みを投げ出しなさい。彼は喜んで聞き、助け、諭してくださる。彼にはしりごみしないで、それが大きすぎるとか多すぎると思わないこと。ぶちまけて安心しなさい。袋いっぱいの空しい不満であっても、すベてを出してしまいなさい。私たちの欠陥より神の偉大さがまさり、それ以上に彼はなさることができ、また、なさろうとする。彼には小出しにして言うのはやめなさい。人は多くの願いごとや頼みごとを、彼に対してはごまかすことができないのである。あなたが願えば願うほど彼は親密に聞いてくださる。ただそのまますベてを注ぎ出しなさい。一滴ずつしたたらせないこと。なぜなら、彼もまた、滴ではなく大洪水をあなたに注ぎかけるであろうから。」★この言葉を誰が語ったのかは伏せておきますが、この人物は自らの人生の中でこの言葉に生きたのです。そしてその生涯を閉じました。キリスト者としてこのように生きる事が出来ることを幸いに思いませんか?