牧師のページ

もしマルタが…。

★今朝は、主イェスを家に迎えたマルタとマリアの出来事なのですが、主イェスのお言葉に従って、マルタの姿勢を少し変更してみました。★(38)一同が旅を続けているうちに、イエスがある村へはいられた。するとマルタという名の女がイエスを家に迎え入れた。(39)この女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、御言に聞き入っていた。(40)マルタは接待のことで忙がしくし、心をとりみだしつつも、イエス一行の接待に専念していた。(41)マルタがイエスの所に来た時、イエスはマルタにたずねて言った。「マルタよ、なぜ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっているのか。」(42)マルタが答えて言った。「いいえ、主よ、わたしは、マリアが御言に聞きいることが出来るように、心を配っているのです。」(43)そこでイエスは答えて言われた、「マルタよ‥‥」★歴史を書き換えることは出来ませんから、私の創作したこの記述は実際に起きたことではありません。しかし、マルタがもし、私がここで記述したように行動し、語ったとしたら、(43)主は答えて言われた、「マルタよ‥‥」という「‥‥」には、どのような言葉が入るのでしょうか?★もちろん「無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。あなたもここに来なさい。」という答えを想起する人達がいてもかまいません。わたしのこの創作には、正解があるわけではありません。ただ、主イェスにお会いした時、なんとお答えになるのか、聴いてみたい気持ちでいっぱいです。

ペンテコステの後に継続していること

★ヨハネによる福音書第5章39節に、次の言葉があります。「(39)あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。」この言葉を解説して、ルターは次のように語っています。★私たちは、聖書は私たちを永遠に救うことのできる有益な神の言葉あると自分で思っているのだから、そこに証しされているキリストを見つけるためにこれを読み、学ぶべきである。聖書の中で、キリストが私たちにどのような意味をもつかを学ばない者は、永遠の命について何も知ることはできない。なぜなら、彼は神のことはなしに生きているのであって、それなしでは人の知恵は、永遠の命について正しく考え、語ることはできないからである。キリストを聖書の中に見出そうとせずに聖書を学ぶ者は、たとえ彼が聖書について多く学び、語り、望んだとしても、永遠の命に達することはできない。★この言葉に、福音書の著者ヨハネの言葉が加わります。(5:13)‥真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。(14)御霊はわたしに栄光を得させるであろう。わたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるからである。(15)父がお持ちになっているものはみな、わたしのものである。御霊はわたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるのだと、わたしが言ったのは、そのためである。★キリスト者は、ペンテコステ以後、今この時でも、この「真理の御霊」が働いていて下さることを信仰によって受け止めるのです。

頑な心を柔軟に

★例年同様、TSG中等科のオリエンテーションキャンプのご奉仕が無事終了しました。背後でのお祈り、心より感謝いたします。★さて、昼食をとりながら、長い間男子校の先生をしておられたある先生から、女子校と男子校の生徒の興味深い相違についてお聞きしました。もちろんこの先生独自の経験からくる判断とすることもできますが、お聞きください。★「男子生徒の場合、先生自体は嫌いでも、語っていることが正しければ、概ね、耳を傾けてくれる。しかし、女子生徒の場合、先生が嫌いなら、どんなに正しことを語っても、ほとんど、耳を傾けてくれることがない。」★この分析が正しいかどうかは別として、この言葉には一つの真理契機があるように思えます。その真理契機とは、「男女の別なく、好き嫌いという感情的判断が先に立ってしまい、話者の話を聞く心を閉ざしてしまうという心理傾向」のことです。私たちは案外、知らず知らずのうちに、この心理傾向に引きずられてしまうのではないでしょうか?★このことは通常、無意識的に起こると考えられますから、場合によっては、厄介な心理傾向といえます。主イエスの生涯で言えば、パリサイ人や律法学者たちの中にこの心理機制に捉えられてしまった人たちを見いだします。また、パウロが実施した伝動旅行の先々で出会ったユダヤ人たちの中にも見いだすことができます。この心理機制に捉えられてしまうと、相手の言葉に真理が語られていたとしても、聞き取ることがありません。パウロが引用したイザヤ書の言葉が思い起こされます。「あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍くなり、その耳は聞こえにくく、その目は閉じている。」★このことは、頑なユダヤ人だけのことではないということです。

御言葉に聴くことから始まる

★パウロの伝道旅行を記す使徒行伝第14章に、ルステラでの出来事が記されています。パウロが、ルステラで生れながら足のきかない人物を癒しますと、群衆はパウロのしたことを見て、声を張りあげ、ルカオニヤの地方語で、「神々が人間の姿をとって、わたしたちのところにお下りになったのだ」と叫びだしました。彼らはバルナバをゼウスと呼び、パウロはおもに語る人なので、彼をヘルメスと呼んだのです。すると、郊外にあるゼウス神殿の祭司が、群衆と共に、ふたりに犠牲をささげようと思って、雄牛数頭と花輪とを門前に持ってきるという事態にまで発展してしまいます。★もちろんパウロはこの異常な事態に即対応します。バルナバとパウロとは、自分の上着を引き裂き、群衆の中に飛び込んで行き、叫んで語りました。「皆さん、なぜこんな事をするのか。わたしたちとても、あなたがたと同じような人間である。そして、あなたがたがこのような愚にもつかぬものを捨てて、天と地と海と、その中のすべてのものをお造りになった生ける神に立ち帰るようにと、福音を説いているものである。」★ここから重要な一つの洞察が与えられます。それは、私たちは、自分自身が持つ(信じている)宗教的な視点から出来事(物事)を判断するということです。ルステラでの出来事に見て取れる通り、同じ出来事を目の当たりにしても、その出来事をどう理解し、どう受け止めるのかということは明確に分かれるのです。ですから、真理を知るためには「解釈の提示」が必要であり、「解釈の自己吟味」が必要であり、「解釈の転換」が必要なのです。★聖書は「啓示の宗教」と言われますが、それは、聖書を読むことが、自分の外側から、自分自身をも含めた現実世界に関する「解釈」を提示されることを意味するからです。この意味で、キリスト教信仰は「御言葉に聴く」ことが入口なのです。
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