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御言葉に聴くことから始まる

★パウロの伝道旅行を記す使徒行伝第14章に、ルステラでの出来事が記されています。パウロが、ルステラで生れながら足のきかない人物を癒しますと、群衆はパウロのしたことを見て、声を張りあげ、ルカオニヤの地方語で、「神々が人間の姿をとって、わたしたちのところにお下りになったのだ」と叫びだしました。彼らはバルナバをゼウスと呼び、パウロはおもに語る人なので、彼をヘルメスと呼んだのです。すると、郊外にあるゼウス神殿の祭司が、群衆と共に、ふたりに犠牲をささげようと思って、雄牛数頭と花輪とを門前に持ってきるという事態にまで発展してしまいます。★もちろんパウロはこの異常な事態に即対応します。バルナバとパウロとは、自分の上着を引き裂き、群衆の中に飛び込んで行き、叫んで語りました。「皆さん、なぜこんな事をするのか。わたしたちとても、あなたがたと同じような人間である。そして、あなたがたがこのような愚にもつかぬものを捨てて、天と地と海と、その中のすべてのものをお造りになった生ける神に立ち帰るようにと、福音を説いているものである。」★ここから重要な一つの洞察が与えられます。それは、私たちは、自分自身が持つ(信じている)宗教的な視点から出来事(物事)を判断するということです。ルステラでの出来事に見て取れる通り、同じ出来事を目の当たりにしても、その出来事をどう理解し、どう受け止めるのかということは明確に分かれるのです。ですから、真理を知るためには「解釈の提示」が必要であり、「解釈の自己吟味」が必要であり、「解釈の転換」が必要なのです。★聖書は「啓示の宗教」と言われますが、それは、聖書を読むことが、自分の外側から、自分自身をも含めた現実世界に関する「解釈」を提示されることを意味するからです。この意味で、キリスト教信仰は「御言葉に聴く」ことが入口なのです。
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