May 2009
まず神の国と神の義とを求めなさい
24/05/09 00:00
★「だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。」★主イエスの言葉は痛烈です。言葉の順序を変えれば、「異邦人が切に求めているものは、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかということである。」となります。確かに、新聞の折り込みも、TVのコマーシャルも、あれを食べよう、これを飲もう、そして、それを着ようという言葉で満ちています。★しかし同時に、このように言い換えますと、既に聞いた主イエスの次の言葉が想起されます。「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。このようにして想起した主イエスの言葉を元にするなら、異邦人がまず第一に求めるべき「神の国と神の義」とは、明らかに「神の口から出る一つ一つの言」であります。この場合の「神」とは、もちろん創造主なる神のことですから、大変初歩的かもしれませんが、異邦人はまず、旧約聖書並びに新約聖書を通して、創造主なる神様が語っておられる言葉を聞く必要があります。そしてこれに、次の言葉が繋がります。「そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。」創造主なる神様の言葉に私たちが聞き従う時、単に私たちの霊的ないのちが生かされるだけではなく、肉体的ないのちもまた生かしていただけるのです。
野の花の美しさを見よ
17/05/09 00:00
★「また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。」★ここでの主題を服装そのもののことだけと読みますと、誤解すると思います。かなり古い歌の歌詞ですが「ぼろは着てても心は錦」という言葉がありました。これに近い視点です。栄華をきわめた時のソロモンがいくら華美に着飾っても、野の花の美しさにはかなわないではないか、という視点で主イエスの言葉を聞いてみましょう。そうしますと、人間にとってより大切なのは、外側に身に付ける着物の方ではなく、神のかたちに造られた人間の持つ本性から外側に滲み出てくる実(品性)の方なのだ、となります。そして、主なる神様は、わたしたちがその本性から善き実を結ぶように働き掛けてくださるのです。★このことがわかりますと、主イエスの語られた「あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。」という言葉は約束の言葉であり、キリスト者は必ず善き実を結ばせていただけるはずなのです。★まず神の国と神の義を求めよという結論が垣間見えています。そして、使徒パウロの言葉が響きます。「御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。」
思い煩いに囚われた時
03/05/09 00:00
★「あなたがたのうち、だれが思い煩ったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。」ここで「寿命」と翻訳された言葉はギリシャ語では「身長」と翻訳される言葉であると言われています。そうしますと、主イエスが語られたこの言葉を問いの形ではなく、叙述文に直せば「人は、思い煩ったからといって、自分の身長をわずかでも延ばすことはできない。」となります。★主イエスが用いられるこの種のレトリックは、驚くほど説得力があります。しかし、私たちの側は、その説得力を知りつつも、なかなか思い煩うことを止めることができません。これもまた聖化の歩みの途上にあるキリスト者の現実です。★しかし、このような現実を踏まえた上で問います。思い煩いに囚われてしまっている中、キリスト者の側には、解放へと向かう道筋はないのでしょうか。この問いに対しては、恐らく様々な提案がなされると思います。そのような提案の中に含まれているかどうか分かりませんが、今日は一つの提案をしたいと思います。それは、主イエスの言葉の中にヒントがあります。主イエスは、思い煩うことと身長を伸ばすことを繋げています。言わば、思い煩うことが栄養で、その栄養を取り入れた結果、身長が伸びるという論理です。このことを応用してみます。思い煩いに囚われている自分に気づいたら、次の問いを考えるのです。「わたしは、このように思い煩うことによって、一体何を手に入れようとしているのであろうか?」という問いです。この問いを考え抜く時、何かが見えてくるなら、それは案外解決することのできる事柄でもあるのです。もちろん特効薬的方法ではありませんが‥‥。