牧師のページ

デボーションの時に

★福音派の伝統に「デボーション」という所作があります。一般に「主の前に静まる」と理解されていますが、英語の意味は「忠誠」・「献身」・「帰依」などと翻訳されます。この名詞が派生してきた動詞にまで遡れば「人・仕事・目的」に対して「時間・努力・金・紙面」を「ささげる」という意味になります。ですから、「一人静かになり、自分自身を、主なる神様にささげる」というイメージがぴったりでしょう。★それでは、「デボーション」の時に何をするのでしょうか?まずは基本的な確認ですが、通常「デボーション」の時には御言葉(聖書)を読みます。「デボーション」のために書かれた書物を利用するのもよいでしょう。このことは大前提とします。次に、心理学的に明らかにされた事実である、「人間には四つの必要がある」ということを認めます。それらの四つとは①身体的必要、②精神的必要、③感情的必要、④霊的必要です。★以上の理解に基づきますと、「デボーション」とは④の霊的必要を満たすことだと考えられがちですが、ちょっと待ちましょう。広い意味で言いますと、御言葉(聖書)は、①身体的必要、②精神的必要、③感情的必要、④霊的必要のすべてを満たすものです。なぜなら、人間を創造してくださった創造主なる神様は、被造物である人間に必要なものが、これら四つの領域のすべてに及んでいることをご存知だからです。ですから、御言葉を通して、この四つの領域の必要を満たしてもらうことを期待して、デボーションに臨みましょう。案外自分の気付かない必要について示されるかもしれません。

神の恵み

★使徒パウロは、装飾を加えず、福音(キリストにおける神の御業)そのものを伝えました。(03)わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、(04)そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、(05)ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。~6,7節省略~(08)そして最後に、いわば、月足らずに生れたようなわたしにも、現れたのである。★続いて、福音を受け取ったパウロ自身の応答行動が語られます。(09)実際わたしは、神の教会を迫害したのであるから、使徒たちの中でいちばん小さい者であって、使徒と呼ばれる値うちのない者である。(10)しかし、神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである。そして、わたしに賜わった神の恵みはむだにならず、むしろ、わたしは彼らの中のだれよりも多く働いてきた。しかしそれは、わたし自身ではなく、わたしと共にあった神の恵みである。★この応答行動の語り方に注目すべき点があります。「神の恵みによって、わたしは今日あるを得ている」。「わたしに賜わった神の恵みはむだにならず」。「わたしは‥‥だれよりも多く働いてきた。それは‥‥神の恵みである。」。このように抽出することで明らかになりますように、「神の恵み」という視点がパウロの応答行動を貫いています。恐らく、「私は神の恵みによって生かされている」というこの自己理解こそが、パウロの言動を最終的に規定していると考えます。★「これほどまでに私は“神の恵み”を理解しているであろうか?」自問自答です。

賀川督明氏の講演から

★今年のJEAの総会では、賀川豊彦師の孫にあたる賀川督明氏(賀川記念館館長)の講演をお聞きすることができました。と言いましても、時間の関係で講演の後半は駆け足となり、消化不良のまま帰宅した感があります。★賀川豊彦師は日本の生協運動の父と言われていますが、キリスト者であり牧師でもありました。ですから、今回の講演を通して、福音派のキリスト教界の中で、賀川豊彦師に対して、適切な歴史的評価が与えられていないことを大変残念に思いました。★賀川督明氏自身、祖父の思想の中に「誤り」が有ることを隠すことなく語っておられました。この態度は、ある人物に対する歴史的評価を適切に行う上で大切なことでありましょう。福音派のキリスト教界が、その姿勢を保持しつつ、賀川豊彦師の働きを再評価する時が来ていると判断したが故に、今回、賀川督明氏を講演者として招待したのであれば、とても生意気な表現を使いますが、福音派の持つ慧眼でありましょう。★前置きが長くなりましたが、賀川豊彦師達が取り組んでいたスラム問題は、その問題解決のために、当初の「救貧」から「救貧と防貧」、即ち「救貧」を続けながらも「防貧」が必要と判断されるに至りました。そして賀川豊彦師達が考えた「防貧」のための手段の1つに「教育中心」という理念があったのです。「防貧」のめには「教育が必要」ということです。★「救貧」は「支援者」の側に力点があるのに対して「防貧」は「支援される側」に力点があります。一般には「自立」を支援すると表現されるでしょうが、私の立つ神学的な視点から言えば、被造物である私たち一人一人の持つ「神のかたち」の発芽・成長・結実を促すということです。★キリスト者は、自分も隣人も共に「神のかたちを持つ存在である」という視点を土台にして物事を考え、実践するのです。

「御霊に満たされる」ことを求める

★使徒パウロが語る「キリスト者の信仰生活指針」を紹介します。引用するのは、エペソ人への手紙第5章からです。★(18)酒に酔ってはいけない。それは乱行のもとである。むしろ御霊に満たされて、(19)詩とさんびと霊の歌とをもって語り合い、主にむかって心からさんびの歌をうたいなさい。(20)そしてすべてのことにつき、いつも、わたしたちの主イエス・キリストの御名によって、父なる神に感謝し、(21)キリストに対する恐れの心をもって、互に仕え合うべきである。★わざわざ「酒に酔ってはいけない」という言葉を残しました。その理由は、「酒に酔う」ことは「乱行のもと」だから、「御霊に満たされる」ことと相反するという狭い意味の強調をしたいめではありません。意図はもっと積極的なものです。「酒に酔う=酒席」を支配する善の要素を考えてみてください。そこには「歌」があり「和合=仲間」があり「ありがたさ感」があります。★それでは、私たちキリスト者が「御霊に満たさる=御霊に酔う」時、何がもたらされるのでしょうか。(1)賛美=「詩とさんびと霊の歌とをもって語り合い、主にむかって心からさんびの歌を歌うこと」(2)感謝=「すべてのことにつき、いつも、わたしたちの主イエス・キリストの御名によって、父なる神に感謝すること」(3)相互奉仕=「キリストに対する恐れの心をもって、互に仕え合う」の3つです。★「御霊に満たさる=御霊に酔う」ことは、「酒に酔う」ことが与える善の要素を確実に含みつつ、同時に、それを凌駕する天的な要素が入り込んで来るのです。
RapidWeaver Icon

Made in RapidWeaver