牧師のページ

HOWとWHY


★最近の新聞をにぎわしている出来事に、トヨタ自動車のリコール問題があります。その問題の本質とは別に、そこから考えさせられる事柄としてHOWとWHYの問題があります。★車を運転する私たちは、車がなぜそのように動くのか(WHY)という、車の動く精密な仕組みについては、良く知らないのですが、どのように運転するか(HOW)についてはよく知っているのです。このことを次のように表現出来ます。「WHYは知らなくてもHOWを知っていれば、とりあえず運転はできる。」★ここで、この文章の中の「運転」という個所に「生きる」という言葉を入れてみます。するとこうなります。「WHYは知らなくてもHOWを知っていれば、とりあえず生きることはできる。」なるほど、と思います。しかし、この文章を丁寧に考えてみますと、意外に重要なことを語っています。と言いますのも「人はなぜ生きるのか?」という問いに対して明確な答えを持たずとも、確かに人はとりあえず生きることが出きるからです。しかし、生きるということを真剣に考えだしますと、この「なぜ生きるのか」という問いが消すことのできない心の声として浮かび上がってくるのです。★「人はなぜ生きるのか?」この問いに対する答えを出さずとも、「とりあえず生きることが出きればいいのさ」という生き方は一面の真理を持っています。しかし、それはあくまでも一面の真理であって、真実な心の渇きそのものを癒すことは難しいと私は考えます。★「存在の頂点に位置しているのは人間である」という前提でこの問いに対する答えを見出そうとする限り、答えは見つからないのではないでしょうか。人間には「外からの啓示」が必要だと私は考えます。

今の時代を生きる私たちキリスト者の祈り


★昨日、牧会塾主催による丸山忠孝先生の講演会に出席しました。その講演の前置きの中で、著名な評論家の言葉を引用されました。★大変興味深い言葉でしたが、私の聴き取りました言葉で言いますと、次のような内容でした。日本は、仏教であれキリスト教であれ、外来宗教を日本的に変容させたうえで受容する。日本的に変容させる要点は五つある。第一は「超越性の排除」。第二は「抽象的要素(神学的・哲学的要素)の除外」。第三は「全体性(システム)の解体と実践的要素(有用性)のみの採用」。第四は「彼岸性を此岸制へと転換」。第五は「排他性(不寛容さ)の除去ないしは軽減」。★知的にはある程度客観的である評論家の目から見て、日本文化の中に定着しているキリスト教の要素を、見事に言い当てていると感心しました(自分の不勉強さの暴露でもありますが‥)。★「超越性の排除」ということで言えば、内在性が強調されるということであります。今で言えば、「千の風になって」という詩が、親しい人の死を受け止めるための詩として人気があることに示されています。「抽象的要素の除外」と「全体性の解体と実践的要素のみの採用」という二つを合わせて言いますと、極端な例かもしれませんが、平然と十字架がアクセサリーとして用いられていることに見られます。★もしも「救済、三位一体、完全に人間であり同時に完全に神でもあるイエス、イエスの復活、神の選び、神の国等」の言葉が、キリスト教会の礼拝説教からすらも排除されるとしたら、そこに残るものはもはやキリスト教ではないことは明らかです。私たちの祈りはまさに「同胞の全てに、霊的に開いた目と聴く耳をお与えください!」です。

神の啓示を解釈する位置に創造されている私たち


★キリスト教は「啓示の宗教」だと言われています。この「啓示」という言葉を広辞苑で引きますとこうあります。「あらわし示すこと。人知を以て知ることのできない神秘を神自らが人間に対する愛の故に蔽いを除いてあらわし示すこと。」★広辞苑による説明の中に「人知を以て知ることのできない神秘」とありますが、「啓示」という言葉の意味を理解する際に重要なのは「人知を以て知ることができない」という点です。つまり、人間理性がいくら思索を深めても、人間には知ることが出来ない事柄があるということです。このことは、人間の場合で言う「自己開示」と似ています。相手がたとえどんなに親しい人であったとしても、自分の側が理性を用いて、いくら思索を深めても、相手の心の中を知ることは出来ないのです。人間は、相手が自己を開示してくれることによって初めて、相手を知り得るのです。★人間理性がいくら思索を深めても、知ることが出来ない事柄の筆頭は何かと言えば、「はじめに神は天と地とを創造された。」というこの創造の啓示です。角度を変えて言えば、「神がいらっしゃり、神の創造によって、歴史が始った。」という啓示です。★ポストモダンと言われる現在、哲学的な意味での認識論は混迷をきたし、人間理性こそ認識の基盤であるという前提が保てなくなってしまいました。複雑な説明をコラムで述べることはできませんが、「人間は、あくまでも神によって与えられている自然啓示と特別啓示を解釈する者として創造されている」という出発点に立たなければ、この混迷を抜け出すことは出来ないと私は考えています。「神による啓示の書である聖書」というこの基本が最も重要なのです。
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