神の啓示を解釈する位置に創造されている私たち
07/02/10 00:00
★キリスト教は「啓示の宗教」だと言われています。この「啓示」という言葉を広辞苑で引きますとこうあります。「あらわし示すこと。人知を以て知ることのできない神秘を神自らが人間に対する愛の故に蔽いを除いてあらわし示すこと。」★広辞苑による説明の中に「人知を以て知ることのできない神秘」とありますが、「啓示」という言葉の意味を理解する際に重要なのは「人知を以て知ることができない」という点です。つまり、人間理性がいくら思索を深めても、人間には知ることが出来ない事柄があるということです。このことは、人間の場合で言う「自己開示」と似ています。相手がたとえどんなに親しい人であったとしても、自分の側が理性を用いて、いくら思索を深めても、相手の心の中を知ることは出来ないのです。人間は、相手が自己を開示してくれることによって初めて、相手を知り得るのです。★人間理性がいくら思索を深めても、知ることが出来ない事柄の筆頭は何かと言えば、「はじめに神は天と地とを創造された。」というこの創造の啓示です。角度を変えて言えば、「神がいらっしゃり、神の創造によって、歴史が始った。」という啓示です。★ポストモダンと言われる現在、哲学的な意味での認識論は混迷をきたし、人間理性こそ認識の基盤であるという前提が保てなくなってしまいました。複雑な説明をコラムで述べることはできませんが、「人間は、あくまでも神によって与えられている自然啓示と特別啓示を解釈する者として創造されている」という出発点に立たなければ、この混迷を抜け出すことは出来ないと私は考えています。「神による啓示の書である聖書」というこの基本が最も重要なのです。