牧師のページ

信仰の土台

★今朝は、キリスト者個人の信仰の土台も、教会の土台も共に、主イエス・キリストである事を確認したいと思います。★使徒パウロが開拓したコリント教会は、分派・分争の問題を起こしてしまいました。直接的な原因は、偽教師とも呼ぶべき指導者に、教会を支配されてしまったことでます。★コリント教会のキリスト者達は、なぜ、そう易々と偽教師達の支配下に入ってしまったのでしょうか。この問いに対する答えはパウロによって語られています。「キリストがわたしをつかわされたのは、バプテスマを授けるためではなく、福音を宣べ伝えるためであり、しかも“知恵の言葉”を用いずに宣べ伝えるためであった。それは、“キリストの十字架”が無力なものになってしまわないためなのである。」★このパウロの言葉から推察されますことは、コリント教会に集っていたキリスト者達の信仰の土台が、十字架の言葉ではなく、知恵の言葉によって形成されていたからではないか、ということです。★福音の中心メッセージは「キリストの十字架」です。十字架の言葉の核心である主イエス・キリストこそが信仰の土台なのです。「神から賜わった恵みによって、わたしは熟練した建築師のように、土台をすえた。そして他の人がその上に家を建てるのである。しかし、どういうふうに建てるか、それぞれ気をつけるがよい。なぜなら、すでにすえられている土台以外のものをすえることは、だれにもできない。そして、この土台はイエス・キリストである。」★主イエス・キリストという土台が揺るぐことのないように、日々御言葉に聞きましょう。

主の祈りを祈る時に思うこと

★今日は、主の祈りが“単純明解な表現”であることの幸いについて書きたいと思います。私にとりまして、“単純明解な表現”とは“包括的な表現”という意味です。★人間的に考えますと、“包括的”であるということは、具体性を欠いた曖昧な状態と考えられてしまいます。たとえば“お茶”という表現は、緑茶なのか、紅茶なのか、はたまた烏龍茶なのか等々。★ここで「御名があがめられますように」という祈りを考えてみましょう。確かに、著名な先生方は「主なる神様の御名が褒め称えられるように」との意味だと言います。私などは、旧約聖書の検討から「神の民によって汚された主なる神様の御名が聖められますように」との意味だと考えます。言葉の上で考えますと、何か一致がなく、正しく祈っているのかどうか、一抹の不安を覚えてしまいます。★しかし、そこがまさに考え所です。「御名があがめられますように」という単純な祈りの意味することが、明確に特定できないのではなく、むしろ、広い解釈的適用を許す祈りなのだと信じるのです。別の言い方をすれば、「総論」を心から祈っているなら、総論の中に含まれる種々の「各論」は、主なる神様の側が、最善にしてくださるという信仰です。★何か自立できていない子供の信仰を推奨しているような気持ちになりますが、恐らく、そうではないと思います。この信仰は、日々、主なる神様の側が、私たちの思いの及ばない領域において、私たちの思いも及ばない御業をなしてくださっているということを信じ告白していることだと考えます。主なる神様に感謝!

御霊の実は、愛

★あまりにも有名な聖書の御言葉は、一度読むと心に刻まれ、再度読む必要がないかのように思えてしまいます。しかし、そこが案外盲点なのかもしれません。今朝は、その筆頭に位置する聖書個所に登場してもらいます。★[01]たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。[02]たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。[03]たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。★一つの解釈として言わせていただくなら、「もし愛がなければ」、「異言の持つ働きが無効となり(1節)」、「理解可能な言葉の働きの結果も相殺されてしまい(2節)」、「犠牲的な行為も相手にとってなんらの利益をもたらさない(3節)」と解釈できます。とりわけ、2節と3節は、「言葉と行為の持つ働き」に関係すると考えられますから、私たちが日常繰り返している働きの全てに適用できます。★「言葉と行為の持つ働き」を相手に受け取ってもらい、その結果を享受してもらうためには、「愛」に媒介してもらう必要であるということです。★御言葉によれば、その「愛」は、御霊の働きによって結ぶ実です。ですから、キリスト者の歩みは、御霊と共に歩むこと抜きにはあり得ないとなります。日々、御霊と共に歩む。やりがいのある歩みです。

御言葉と聖霊なる神の二人三脚

★主イエスがこの世を去って父なる神のみもとに帰られる前、聖霊なる神のお働きについて、主イエスは次のように語っておられました。
[15:26]わたしが父のみもとからあなたがたにつかわそうとしている助け主、すなわち、父のみもとから来る真理の御霊が下る時、それはわたしについてあかしをするであろう。
[16:13]‥‥真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。
★もし、聖霊なる神のお働きを、この聖書個所だけから聴き取ってしまいますと、多くの場合、真理の御霊(聖霊なる神)が、人間に対して、単独で働き掛けるような印象を与えてしまいます。しかし、実際はそうではありません。真理の御霊は、御言葉と一緒に働くのです。つまり、神の言葉と真理の御霊は、二人三脚なのです。★もちろん、ある信仰者にとって、聖霊なる神があたかも単独で働いているように見える現象が信仰体験の中に存在することは認めます。しかし、それはあくまでも「あたかも単独で働いているように見える」だけであって、聖霊なる神が、御言葉を無視して働くということは、あり得ないのです。★主の年の2012年、真理の御霊が傍らにいてくださることを確信して、御言葉を読み続けていきたいと願います。
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