御霊の実は、愛
08/01/12 00:00
★あまりにも有名な聖書の御言葉は、一度読むと心に刻まれ、再度読む必要がないかのように思えてしまいます。しかし、そこが案外盲点なのかもしれません。今朝は、その筆頭に位置する聖書個所に登場してもらいます。★[01]たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。[02]たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。[03]たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。★一つの解釈として言わせていただくなら、「もし愛がなければ」、「異言の持つ働きが無効となり(1節)」、「理解可能な言葉の働きの結果も相殺されてしまい(2節)」、「犠牲的な行為も相手にとってなんらの利益をもたらさない(3節)」と解釈できます。とりわけ、2節と3節は、「言葉と行為の持つ働き」に関係すると考えられますから、私たちが日常繰り返している働きの全てに適用できます。★「言葉と行為の持つ働き」を相手に受け取ってもらい、その結果を享受してもらうためには、「愛」に媒介してもらう必要であるということです。★御言葉によれば、その「愛」は、御霊の働きによって結ぶ実です。ですから、キリスト者の歩みは、御霊と共に歩むこと抜きにはあり得ないとなります。日々、御霊と共に歩む。やりがいのある歩みです。