牧師のページ

“自分自身を生きない”という浪費はやめよう

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★2018年最後の主日を迎え、年内最後のコラムに、マザー・テレサの言葉に聞きたいと思います。

ゆだねられた仕事をしている時はいつでも、
真心こめて行いなさい。
どれだけたくさんしたかではなく、
どれだけ忠実に、
していることに信仰をこめるか、です。
していることに違いはないのです。
ただ時々、私たちは忘れたり、
他の人を見て、人がしていることを
自分もしたいと思って時間を浪費します。

★主イェスが語られた「タラントの譬え」を思い起こしました。創造主なる神様は、それぞれの能力に応じて、ある者には五タラント、ある者には二タラント、ある者には一タラントを与えて下さっています。譬え話の中では、五タラントを渡された者は、それで商売をして、ほかに五タラントをもうけました。二タラントの者も同様にして、ほかに二タラントをもうけました。譬え話の主旨に沿えば、一タラントを渡された者も、同様にすればそれで良かったのです。★「人がしていることを自分もしたいと思って時間を浪費します」とは至言です

クリスマスの時に私たちの心が向かうべき方向は「永遠」

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★文脈に従って聴き取るという基本に立ちつつ、伝道の書を読み解くのは、時に難しい箇所があります。そうではありますが、箴言のように考え、一部を切り取って読む時、そこには、思考の種になる主題が多くちりばめられています。★私としては、3章11節がその典型ですが、次のように記されています。「神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。」この11節の真ん中の言葉に聞きますと、私たちの心は「永遠を思う思い」を持っていることがわかります。そしてここからが考え所です。★聖書を読めば明らかですが、主なる神様は、十戒に代表されるように、私たちに対して「今この時、人間は、如何に生きるべきなのか」という律法を与えられました。ですから、これらの律法の下で私たちの心の思いが働く時制は「今この時」です。★これに対して、主なる神様は、私たちの心に「永遠を思う思いを授けられた」わけですから、「永遠に関係する言葉」をも与えてくださるはずです。★ヨハネは「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」と記しました。これは「永遠に関係する言葉」です。ですから「神のひとり子」が与えられたクリスマスの時に私たちの心が向かうべき方向は「永遠」であり「永遠の命」なのです。

忍耐して待ち望む心を目覚めさせていて下さる聖霊のお働き

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★クリスマスシーズンに読まれる聖書箇所に次の記事があります。それぞれ、ルカによる福音書第2章に記されています。
[25]その時、エルサレムにシメオンという名の人がいた。この人は正しい信仰深い人で、イスラエルの慰められるのを待ち望んでいた。また聖霊が彼に宿っていた。[26]そして主のつかわす救主に会うまでは死ぬことはないと、聖霊の示しを受けていた。
[36]また、アセル族のパヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。彼女は非常に年をとっていた。むすめ時代にとついで、七年間だけ夫と共に住み、[37]その後やもめぐらしをし、八十四歳になっていた。そして宮を離れずに夜も昼も断食と祈とをもって神に仕えていた。[38]この老女も、ちょうどそのとき近寄ってきて、神に感謝をささげ、そしてこの幼な子のことを、エルサレムの救を待ち望んでいるすべての人々に語りきかせた。
★記されているとおりアンナは84歳であります。文脈からシメオンも老人であったと考えられています。そうしますと、二人とも、高齢になるまで、神の民の救いのために祈り続け、メシヤの到来を待ち望んでいたことになります。★期限が明確でない状況の中で「待つ」ということはとても忍耐のいることです。しかし、この二人は、どんなに年老いても「目覚めていました」。もちろん「聖霊によって」という言葉がつくことでしょう。★それなら、わたしたちは年老いるまで、この主イェスの言葉に信頼しましょう。「あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか」。

「永遠の命を得る」という希望の大きさ

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★今私たちの教会が聴き取っています、主イェスの語られた終末の時についての教えは、信仰者の側から言えば、究極「永遠の命を得る希望」に至ります。この希望の持つ大きさについて宗教改革者ルターが次のように語っています。☆「勝利を得る者には、わたしと共にわたしの座につかせよう。(ヨハネの黙示録第3章21節)」私たちはこのような不思議を福音を通して得ているのだから、大胆になり、喜んで誇ろう。「私は洗礼を受け、キリスト者である。それゆえ、私は決して疑わない。主イエスを通して私はー人の主人であり、罪と死の上に君臨し続け、天とすベての被造物は、私の益になるように仕えるはずである」と。☆たとえ私がトルコ皇帝の王冠を持っていたとしても、キリストの相続財産に与かり、彼と共に永遠に生きることに比べれば、それは無に等しい。☆しかし、それを正しく信じて心にとらえている人々を私たちはどこで見付けるだろう。私たちはみなそろって、それを口まねすることはできるであろう。しかし、私たちが信じていないことはすぐに発覚する。なぜなら、私たちはあの不思議を自分の心にもたないからである。さもなければ、私たちは喜ばしいばかりでなく、大胆になるはずであるから。☆と言うのも、キリスト者とは、自分がキリストを通してすべての上に立つ主であることを知っているので、悪魔もあらゆる不幸も気に留めない、大胆な、幸せな人間だからである。★ルターの言葉は、単純明確な対比を用いることで要点を大胆に際立たせています。主イェスの言葉で言えば、「人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。(マルコ8:36)」となります。
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