October 2009
黄金律を読み解く一つの試案−その2
25/10/09 00:00
★今日は「黄金律」の二回目です。前回、この黄金律が、創造の御業の完成である“神の国に至りつつある自分”に命ぜられていると理解しました。★このことを再度説明させてください。この視点に立ちますと、とても図々しく聞こえますが、キリスト者にとって、「人々(隣人)からしてほしいと望むこと」とは、神の国に至るために隣人が私たちと共に歩んでくれることです。また、神の国の完成を目指すために隣人が私たちと共に歩んでくれることです。★これを受けてキリスト者は「人々(隣人)にもそのとおりにする」のです。そうしますと、キリスト者の側は、隣人が神の国に至るために、私たちは隣人と共に歩むのです。これが伝道です。また、隣人が神の国の完成を目指すために、私たちは隣人と共に歩むのです。これが協働、即ち、社会的責任を果すために、共に働くことです。★この行動の根拠として先の言葉があるのです。「あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。魚を求めるのに、へびを与える者があろうか。このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。」★これは、父なる神様の側の与える確実さということを述べているのですが、これを、私たち人間の側で言えば、例えば「何が起きても、あきらめないで、継続し続ける」となります。★主よ力をお与え下さいという祈りと共に、この黄金律を生きる歩みを!
黄金律を読み解く一つの試案
18/10/09 00:00
★今日は「黄金律」と呼ばれる言葉です。「だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である。」★文頭に「だから」とあります。これは先の言葉「あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。魚を求めるのに、へびを与える者があろうか。このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。」を受けています。★前回、この御言葉はキリスト者に対して救いの確実さを保証する言葉となる、と読み解きました。そこで黄金律も同じ文脈で考えます。そうしますと、創造の御業の完成である神の国に至りつつある自分が「何事でも人々からしてほしいと望むことを人々にもそのとおりにせよ。」となります。★このように考えますと、キリスト者が「人々にもそのとおりにする(仕える)」とは、「創造の御業の完成である神の国に“共に”至るために仕える」となります。この場合、神の国に至るとは、狭い意味の救いだけを考えていません。それでは福音の提示(伝道)だけになってしまいます。聖書の啓示で言えば、「神の国に至る」とは創造の御業の完成という視点が同時にあります。ですから、キリスト者は「被造世界の管理」という文脈で「人々にもそのとおりにする(仕える)」を考えることになります。この視点から言えば、キリスト者はより鮮明に「愛をもって仕える」という働きを担うことになります。「律法と預言者」が啓示しているのは伝道と社会的責任の二つです。
確実に救いに至らせてくださる天の父
04/10/09 00:00
★「あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。魚を求めるのに、へびを与える者があろうか。このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。」★この御言葉から、ただ単純に「父なる神様は気前の良い御方である」という解釈を引き出すわけにはいきません。注解者が注目しますように、主イエスは「自分の子供には、良い贈り物をする」と語りまして「パンや魚そのものを与える」とは語っていないのです。ですから、主イエスの言葉に基づけば、「天の父は、子供の必要に呼応しないものを決して与えることはない」ということです。★このことが確認できれば「天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか」という言葉も同様に理解されます。既に学びましたように、大きな文脈を考えれば、この言葉は、神の国と神の義を求め、命に至る門をたたく文脈の中にあります。この文脈を意識して、二重否定文を肯定文に言い直してみましょう。そうしますと「父なる神様は、ご自分の子供であるキリスト者(赦された罪人)の必要に呼応する良きものを必ず与えてくださる」となります。この言い換えが的を得ているなら、その意味する所は、父なる神様は、神の国と神の義を求めつつこの地上を歩むキリスト者に対して、様々な体験を与えつつも、必ずや命に至る門に至らせ、その門を開いて下さるということです。これは、キリスト者に対して、救いの確実さを保証する言葉となります。