August 2017
キリスト者なら分かること
27/08/17 00:00
★私たちキリスト者は隣人を愛するようにと召されています。ですから、愛の律法で言えば、日々の生活の中で、「自分と同じように自分の隣人を愛せよ」というこの律法を心に刻んでいるはずです。★そうではありますが、自分のことを例にあげて恐縮ですが、よくよく考えてみますと「私は妻を愛しているだろうか」と問うことは正確とは言えません。何故かと言いますと、恐らく愛という言葉は総合的な概念だからです。★私が問わなければならないのは、もっと具体的なことです。パウロの言葉を借りるなら、こうなります。今度は一般的に語ります。★私は今日、◯◯さんに対して「寛容」であっただろうか。私は今日、◯◯さんに対して「親切」であっただろうか。私は今日、◯◯さんに対して「不作法をしなかった」だろうか等。★ここで大切なのは、これらのことの一つが実行できなかった時、相手の◯◯さんの側は、逆に、心の中で「わたしは愛されていない。」と感じ取ってしまっているということです。★このような人間の現実を知っているみ言葉は語ります。「互いに、赦しあいなさい。」「赦す」ことは「愛」です。これはキリスト者なら分かることです。
「善悪を知る木」が啓示している事
20/08/17 00:00
★創世記に登場する「善悪を知る木」について解説します。一般の書物の中で、「これはリンゴの木であった」と記されていたりしますが、創世記には、そのような記述はありません。★また、この木からその実を取って食べると「何が善で何が悪なのかを判断できる知恵(力)が与えられるのだ」と解釈したくなりますが、それは正しい解釈ではありません。★この言葉は文脈的に丁寧に解釈する必要があります。創世記の記述によれば、「主なる神」が「人」に対して、この「善悪を知る木」から「取って食べてはならない」と(契約関係の中で)命令されたのです。ですから「人」は、この「主なる神」の「命令(契約)に従うことが“善”」であり、この「命令(契約)に従わないことが“悪”」なのだと判断するはずです。つまり、大きく言いますが「善悪を知る木」とは「主なる神の口から出る言葉」に従えば「善」であり、従わなければ「悪」ということを「人」が「知る」ための「木」ということです。★このことをご理解いただけるなら、この考え方は、旧新両約聖書を通じて一貫していることです。★次の主イェスの言葉を思い起こします。①『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある。②「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。★「主なる神の口から出る言葉」は「普遍的に絶対」なのです。
神がわたしたちの味方であるなら…
06/08/17 00:00
神がわたしたちの味方であるなら…★ルカによる福音書第19章に記された「ミナの譬」とマタイによる福音書第25章に記された「タラントの譬」は、様々な点で相違がありますので、主イェスがこの両方の譬えに込めたそれぞれの意味や意図を聴き取る─釈義する─のに、大変有益です。★そのような理解のもと、両者に共通しているのは、それぞれ「一ミナ」と「一タラント」を託された僕の「主人に対する考え方」です。「一ミナ」を託された僕は、主人のことを次のように考えています。「あなたはきびしい方で、おあずけにならなかったものを取りたて、おまきにならなかったものを刈る人なので、おそろしかったのです。」「一タラント」を託された僕は、主人のことを次のように考えています。「ご主人様、わたしはあなたが、まかない所から刈り、散らさない所から集める酷な人であることを承知していました。そこで恐ろしさのあまり…」★「タラントの譬」を語る場合、五タラントを託された僕と二タラントを託された僕が登場しますので、往々にして「一タラントを託された僕は、比較して‥」という言葉を良く聞きます。そのことを否定するつもりはないのですが、これが「譬え話」であることをふまえますと、一番に注目すべきは、やはり、「一ミナ」や「一タラント」を託された僕達の「主人に対する考え方」だと私は考えます。★キリスト者である「私」の「主なる神様」に対する考え方が「一タラント」を託された僕と同じなら、たとえ現実の賜物として「十タラント」を託されていたとしても「私」の働きの結末は同じ結果になると推察します。★「主イェスの贖罪を信じた」ゆえに「主なる神様」は「私」の「味方である」(ローマ8:31)との理解に安んじて立ちましょう!