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神がわたしたちの味方であるなら…

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神がわたしたちの味方であるなら…★ルカによる福音書第19章に記された「ミナの譬」とマタイによる福音書第25章に記された「タラントの譬」は、様々な点で相違がありますので、主イェスがこの両方の譬えに込めたそれぞれの意味や意図を聴き取る─釈義する─のに、大変有益です。★そのような理解のもと、両者に共通しているのは、それぞれ「一ミナ」と「一タラント」を託された僕の「主人に対する考え方」です。「一ミナ」を託された僕は、主人のことを次のように考えています。「あなたはきびしい方で、おあずけにならなかったものを取りたて、おまきにならなかったものを刈る人なので、おそろしかったのです。」「一タラント」を託された僕は、主人のことを次のように考えています。「ご主人様、わたしはあなたが、まかない所から刈り、散らさない所から集める酷な人であることを承知していました。そこで恐ろしさのあまり…」★「タラントの譬」を語る場合、五タラントを託された僕と二タラントを託された僕が登場しますので、往々にして「一タラントを託された僕は、比較して‥」という言葉を良く聞きます。そのことを否定するつもりはないのですが、これが「譬え話」であることをふまえますと、一番に注目すべきは、やはり、「一ミナ」や「一タラント」を託された僕達の「主人に対する考え方」だと私は考えます。★キリスト者である「私」の「主なる神様」に対する考え方が「一タラント」を託された僕と同じなら、たとえ現実の賜物として「十タラント」を託されていたとしても「私」の働きの結末は同じ結果になると推察します。★「主イェスの贖罪を信じた」ゆえに「主なる神様」は「私」の「味方である」(ローマ8:31)との理解に安んじて立ちましょう!
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