牧師のページ

「神のかたち」に創造されているからこそ理解できる主イェスの言葉

★キリスト者は、主イェスが語られた次の言葉を知っています。
[13]あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。
★ここに語られる「人々」とは「社会」と言い換えられますから、キリスト者には「社会的責任」があることがわかります。このことに次の言葉が続いています。
[14]あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。
[15]また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのである。
[16]そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。
★この言葉も「社会的責任」の文脈で読むことが出来ます。ですから、この言葉は「社会的責任」のルーツである創世記第1章2628節に至ります。つまり「よいおこない」とは「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」の実践と解釈出来ます。★私たち人間がこの「被造世界の管理命令」を実践出来るのは、人間が「神のかたち」に「創造されている」からです。キリスト者は、このことを知っているので「よいおこない」によって「天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい」と語られる両者の繋がりを理解できるのです。

ルターが語る「聖化論」として聴き取る

★パウロはピリピ人ヘの手紙第3章12節で次のように語っています。「わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。」★ルターがこの言葉に基づいて語っている言葉を聴いてください。◆信仰者にとって、彼がそれをすでに捕らえたとか、それをまず求める必要はないと思うほど有害なことはほかにない。なぜなら、そこから、多くの人々が逆戻りしたり、確信を深める一方で怠惰にもなり、心がしぼんでしまったり、無気力になったりするからである。◆それゆえに、キリスト者であることを始めた人には、自分はまだキリスト者ではなく、キリスト者になることに向かって探求していると考える義務がある。この命は、義ではなく義とされる途上、健康ではなく健康になる途上であり、実体ではなく生成、休息ではなく訓練である。私たちはまだそれではないが、私たちはそうなるのである。それはまだ済まず、成っていない。だが、それは進行中で、広がろうとしている。それは終りではなく過程である。キリスト者は成長の途中であって、でき上がりではない。◆それゆえに、キリスト者である人は、キリスト者ではない。すなわち、自分がすでにキリスト者になったと思い込んでいる者は、なにものでもない。かえってキリスト者になるべきなのである。◆なぜなら、私たちは天国に向かって手を伸ばしているのであって、まだ天国にいるのではない。そして、すでに天国にいると思い込んでいる者が決して天国ヘ来ることがないのと同様に、天国ヘ向かって手を伸ばし、天国ヘ入ろうと求めている者は、すでに天国にいるのである。この国の働きはこのように不思議なものである。★これはルターの「聖化論」であると、わたしは聴き取ります。
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