牧師のページ

わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる

★使徒パウロは、宣教の戦いの中で獲得した信仰的確信を次のように述べています。「わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ。わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている。わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。」★このパウロの言葉を、私たちキリスト者の歩みに適用することが許されるなら、明確に了解されることがあります。否定的な要素だけを拾います。そうしますと、この世にあって、キリスト者は「貧する」こともあり、「飢える」こともあり、「乏しい」こともある、ということです。つまり、「富む」ことや「飽く」ことを絶対的に保証しないという意味で言えば、日本的宗教の視点で、キリスト教は御利益宗教ではないことになります。★敢えて言葉を合わせますが、それでは、キリスト教信仰の「御利益」とは何なのでしょうか。それは、パウロの言葉にありますように、「わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。」という信仰的確信です。これは、言葉を換えて言えば、「創造主なる神が、自分の味方であるから大丈夫という信仰的確信を持って良い」、ということです。ですから、パウロは「ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている。」と言い得たのだと信じます。

神田英輔師を迎える集会が目指しているもの

★8月第2週は、講師に神田英輔師(「声なき者の友」の輪・代表)をお迎えし、「東日本大震災から学ぶこと」をテーマとした講壇並びに修養会を計画しています。サブテーマは、教会の意図としては、「“私たちに何ができるか”へ向けて」であります。★このサブテーマから思い起こすのは、主イエスとある律法学者との対話です。対話の要点は次の御言葉の流れで確認していただけると思います。
⇨『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。また、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』とあります。
⇨「では、わたしの隣り人とはだれのことですか」。
⇨「だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」。
⇨「その人に慈悲深い行いをした人です」。
⇨「あなたも行って同じようにしなさい」
★主イエスのお語りになられたことを大胆に適用すれば、三つの事が言えます。その第一。主なる神様は、私たち一人ひとりに対して、「隣人愛の対象である“自分の隣人”を傍らに備えておられます。その第二。私たち一人ひとりは、その“自分の隣人”を知っているかもしれませんし、まだ知らないかもしれません。その第三。もし“自分の隣人”を知っているなら、まずは動いてみることです。そして、もし知っていないなら、今回の修養会が大きな意味を持つと考えています。

批判が批判だけで終わらないために

★使徒パウロは、エペソ人への手紙第4章29節で次のように勧告しています。「悪い言葉をいっさい、あなたがたの口から出してはいけない。必要があれば、人の徳を高めるのに役立つような言葉を語って、聞いている者の益になるようにしなさい。」この勧告が語られた文脈、ないし枠組みは、「怒ることがあっても、罪を犯してはならない。憤ったままで、日が暮れるようであってはならない。また、悪魔に機会を与えてはいけない。」となっています。★細かい議論を脇に置けば、「悪い言葉を口から出すこと」が「悪魔に機会を与える」ことの一つだと言えます。★加藤常昭師は、ルターがこの「悪い言葉」を「腐った言葉」と翻訳したという事実を伝えた上で、次のように述べています。内臓が病むと、そこから出る息も腐ったような臭いをたてる。私たちのこころが腐ると言葉が腐る。腐った言葉はひとに神の恵みを伝えることはない。相手が倒れているとき、これを立ち上がらせてあげる言葉にはならない。批判の言葉が全てこれに該当するとは考えませんが、確かに落とし穴はすぐ近くにあります。★このパウロの忠告をを踏まえつつ、大津市の中学2年生が自殺した事件について述べれば、学校側の言葉にも、市教育委員会の言葉にも、私は「腐った言葉」の臭いを感じます。また、滋賀県警が動き出しましたが、中学生のご両親は、被害届を県警大津署に3回提出しようとしたが、いずれも受理を拒否されています。★主なる神様は、イスラエルの民を捕囚する外敵に対して、「彼らは老人の身を顧みず、幼い者をあわれまず」と語っています。いつの時代も、キリスト者は「人の徳を高めるのに役立つような言葉」に生きることが求められています。

まずは、一歩を踏み出す

★箴言第24章11節,12節にこうあります。まず新改訳で読みます。(11)捕らえられて殺されようとする者を救い出し、虐殺されようとする貧困者を助け出せ。(12)もしあなたが、「私たちはそのことを知らなかった」と言っても、人の心を評価する方は、それを見抜いておられないだろうか。あなたのたましいを見守る方は、それを知らないだろうか。この方はおのおの、人の行いに応じて報いないだろうか。★次に新共同訳ですが、興味深いことに10節からの段落として翻訳しています。(10)苦難の襲うとき気力を失い、力を出し惜しみ(11)死に捕えられた人を救い出さず、殺されそうになっている人を助けず(12)「できなかったのだ」などと言っても、心を調べる方は見抜いておられる。魂を見守る方はご存じだ。人の行いに応じて報いを返される。★聖書を開き、社会的責任という視点から、私たちキリスト者の生き方の基準を求めれば、主イエスが語られた律法の要約のとおり、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」という御言葉に到達いたします。主なる神様の御前に「私たちはそのことを知らなかった」とか「できなかったのだ」という言い訳は通用しないのです。その理由は簡単です。私たちは確かに「何もかも」はできませんが、たとえ僅かであっても「あれだけ」や「これだけ」はできるのです。そして、主なる神様がお求めになっているのは、まずは、そのことだけなのだと知りましょう。
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