牧師のページ

神の言葉はキリストの教会で語られなければならない

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★「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさし神の家である。ここは天の門だ。

(創世記第28章17節)

★ルターはこの御言葉に基づいて次のように語っています。◆神の家は、私たちの持っているような、素晴らしい大きな建物を指すのではないことに注目しなさい。神はそこに大きな丸天井があることも、聖別されていることもお尋ねにならない。いや、神はあそこに住んでおられるが、決してご自分のために家をお建てになることはない。◆神がお住みになる場所には、いったい何がふさわしいのか。神の言葉がそこにあることだけが、神がそこにおられることに適っている。御言葉のあるところに神は確実にお住まいになり、逆に、人が自分の望むだけ大きな家を彼のために建てたとしても、神は、御言葉のないところにはお住まいにならない。◆御言葉の説教されるところ、そこに神は確実におられる。しかし、そうでないところは、たとえ人が教会を次々に建てたとしても、神の家ではない。◆教会は、そこで神の言葉が純粋に、混ざり物なく説教されるときにのみ価値があるのである。★主なる神様から委ねられた働きと使命とがどれだけ果されているかは全く心もとない状態ですけれども、このルターの言葉が、「わたし」を支えている言葉であります。

聖なる恐れを欠いた時の人間の姿から考える

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★主イェスは山上の説教の中で「あなたは殺してはならない」という第六戒に対する律法解釈(現実的適用)を語っておられます。[21]昔の人々に『殺すな。殺す者は裁判を受けねばならない』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。[22]しかし、わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。兄弟にむかって愚か者と言う者は、議会に引きわたされるであろう。また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう。★相手に対して怒り、その怒りの表明として相手を「愚か者、ばか者」と語る時(恐らく、心の内で思う時も)、既に相手を「殺している」ということです。★主イェスによるこの適用を用いるなら、誰とは書きませんが、今まさに日本で起きていることに対しては「あなたは隣人について、偽証してはならない」という第九戒と「あなたは姦淫してはならない」という第七戒が適用されます。創造主を認めることのない優秀な人間理性が自律的になっている場では、いとも簡単に「十戒が破られてしまう」ことがわかる典型的な例です。★とても大きな言い方になりますが、このことは、赦された罪人に過ぎないキリスト者においても事実であって、御言葉を越えないという被造物としての立ち位置をいつでも自己吟味する必要があります。と同時に、そのような自己吟味の姿勢は、自分自身を萎縮させてしまうのではありません。軌道修正により、新しくされた自分を、より健全に管理し生かす道筋に立つ、ということです。

「真理と正義」をないがしろにしてはならない

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★パウロが、エペソの教会のキリスト者達に伝えた「神の武具」から“今”の課題を考えます。★キリスト者は「誰」と戦うのでしょうか?「わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。」ここで丁寧な解説は出来ませんが、一言で言えば「霊的な力」との戦いです。★ですから「神の武具」は、「腰:真理の帯胸:正義の胸当足:平和の福音の備え手:信仰のたて頭:救のかぶと口:御霊の剣/神の言口:御霊による祈りと願い」となります。★この「神の武具」を身に付ける目的は「悪しき日にあたって霊的な力」に対して「よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるため」です。★ここから武具の中心概念を抜き出しますと「真理・正義・平和の福音・信仰・救い・神の言・御霊による祈り」となります。★このことを確認した上で、キリスト者にとっては当然という概念を取り去りますと最初の二つである「真理と正義」だけが残ります。★ここから大きく語ります。「何がしかの知的・霊的な力」との戦いにおいて必須な「武具」は「真理と正義」なのです。それ故歴史的必然として「真理と正義」を軽く扱う国は、その代償を必ず受け取ることになります。★ですから、キリスト者はそのことを忌憚なく語り、同時に祈る必要があるのです。

イースター:“死”の先に希望に至る道が開かれた日

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★今日はオリーブチャペルの方々と一緒のイースター礼拝となりました。イースター(復活祭)にあたり、キリスト教会でよく語られる言葉に次の言葉があります。「主イェスが死から復活された時、死に対して死が宣告されたのだ。」★使徒パウロが旧約聖書から引用した言葉で言えばこうなります。「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか。」★ここで「愛の配慮の無い言葉を語るな」とのお叱りを受けることを覚悟して、一般的で究極的な言い方をしますが、「死」という門をくぐり抜けた先が「無だけ」だとしたら、私達の人生は、ただ単に“死”というゴールに至るまでの道筋がそれぞれ異なっているだけで、結局は皆同じ結末に至るのです。★この種の虚無的な言葉こそが客観的な真理ではないかと確信している人たちに対して希望の火をともせるのは「死が罪の結果」であり、その罪の問題が解決されるなら「死」は「いのち」に転換されるという言葉を確信させてもらえる以外にはないと考えます。★解説無しでそのまま引用しますが、主イェスは今この時も私達一人一人に対してこう語りかけておられます。「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」。★どんなに時間がかかっても、主イェスが罪の問題の解決者であると受け入れることができ、マルタの答えに連なることが出来れば幸いです。「主よ、信じます。あなたがこの世にきたるべきキリスト、神の御子であると信じております」。
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