牧師のページ

キリスト者は、この世にあって、被造世界の正しい管理という課題に取り組む

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★2015年の協力講演会の時、講師の倉沢正則先生が次の言葉を語られました。英語で表現しますと「Think Globaly,Act Localy」です。私訳では「地球規模で物事を考え、自分が生きている場所で行動する」となります。この言葉の特徴は、抽象化して言えば、総論と各論という二つの視点をいつでも同時に持ちなさい、ということです。★例えば、お叱りを覚悟で語りますと、私達にとっては、自分に関する事柄(各論)だけに専心しているほうが楽なのです。そこに隣人が登場してきますと、事態はいきなり複雑化してしまいます。しかし、このような時、自分に関する事柄と隣人に関する事柄を両方含んだ総論を持っていれば、複雑な事態の中でも対策を考え出すことが可能となります。★自分自身、未だ適切な言葉を選択した上で表現しているとは言えませんが、Think Globaly,Act Localy」を適用して、私達キリスト者は「被造世界の完成の時を思い描きつつ、今この時、自分自身に委ねられた領域で自分の果たすべき責任を生きる存在である」となります。この言葉の根拠は次のパウロの言葉です。[19]被造物は、実に、切なる思いで神の子(→キリスト者)たちの出現を待ち望んでいる。[20]なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、[21]かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。★私は、最後の21節を「被造物自身にも、(キリスト者たちが正しい被造世界の管理を開始することによって)滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されている」と読みます。★一気にホットな課題を言えばマイクロプラスチック問題です!

「主イェスとの出会い」のために仕える教会

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★今日の主日礼拝の聖書個所で、私たちは「クレネ人のシモン」が主イェスと出会った記事を読みました。とても当たり前のことなのですが、「クレネ人のシモン」が主イェスと出会うことがなければ主イェスを知ることはありませんでした。そして主イェスを知ることがなければ「クレネ人のシモン」はキリスト者になることはありませんでした。★今述べたことは一次証人のキリスト者たちに当てはまる事ですから、主イェスを直接知ることのない二次証人以降のキリスト者たち─私たちのこと─については、次のように表現することになります。★「私」が主イェスについて知ることになったのは、主イェスを知ったキリスト者に出会った所から始まりました。「私」は主イェスを知ったキリスト者に導かれて、キリスト者達の集まる「教会」に行きました。「私」は「教会」を通して「主イェスを伝える聖書」に出会いました。「私」は「聖書」を読むようになり、キリスト者達から「聖書」を解き明かされ、「聖霊なる神」のお働きにより、直接お会いしたことのない主イェスをキリスト(=救い主)と信じ、キリストにある幼子として生れ、キリスト者になりました。そして、その時以来、「私」は、「聖書」と「聖霊なる神」と「教会」と共に、キリストにある幼子からキリストにある成熟した大人になるべく、信仰の歩みを進めています。★なぜ、このようなことを書かせてもらったのかと言えば、出会い方には多様性があったとしても、人がキリスト者となる出発点には、必ず、「イエス・キリストとの出会いという一点」がある、ということです。★簡単なことではありませんが、わたしたちの教会もこの「一点」のために仕えたいと願わされます。

日常生活そのものが「礼拝行為の実体」であるという理解について

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★ローマ人への手紙第12章1節を読み比べてみました。一部省略します。
[01]…そういうわけで…あなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。(口語訳)
[01]そういうわけですから…あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。(新改訳第3版)
[01]
こういうわけで…あなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。(新共同訳)
[01]ですから…あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。(新改訳2017)
[01]こういうわけで…あなたがたに勧めます。自分の体を、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたの理に適った礼拝です。(聖書協会共同訳)
★出版された順番に並べてみますと、わたしにとって一番大きい気付きは「礼拝」を修飾する言葉が「霊的な」から「理に適った」という翻訳になったことです。ここで用いられているギリシャ語はλογικηνという言葉で、λογος(ロゴス)と関係しています。ですから、「霊的な」という翻訳によって、パウロの議論が文脈を外れてしまうような感覚がありました。しかし、この翻訳により、被造物である人間にとっては、日常生活そのものが礼拝行為の実体なのだという理解がより「理に適った」ものになりました。
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