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日常生活そのものが「礼拝行為の実体」であるという理解について

sks-21
★ローマ人への手紙第12章1節を読み比べてみました。一部省略します。
[01]…そういうわけで…あなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。(口語訳)
[01]そういうわけですから…あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。(新改訳第3版)
[01]
こういうわけで…あなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。(新共同訳)
[01]ですから…あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。(新改訳2017)
[01]こういうわけで…あなたがたに勧めます。自分の体を、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたの理に適った礼拝です。(聖書協会共同訳)
★出版された順番に並べてみますと、わたしにとって一番大きい気付きは「礼拝」を修飾する言葉が「霊的な」から「理に適った」という翻訳になったことです。ここで用いられているギリシャ語はλογικηνという言葉で、λογος(ロゴス)と関係しています。ですから、「霊的な」という翻訳によって、パウロの議論が文脈を外れてしまうような感覚がありました。しかし、この翻訳により、被造物である人間にとっては、日常生活そのものが礼拝行為の実体なのだという理解がより「理に適った」ものになりました。
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